- miurano_suke
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@aizuyakata 数日前に述べたように須江光頼は盛隆の代に突然現れてくるが、実は俗に「蘆名の執権」と称される金上盛備(盛満、以下煩瑣なので便宜的に盛備とする)も、盛隆の代になって急激に史料に現れる数が増す。
2016-04-23 16:53:48@aizuyakata 盛氏、盛興の代にも史料がないことはないが、外交文書に出て来ることは殆どない。管見の限りだが、盛氏死去前年の天正7年にようやく現れる。 確認出来たのは2通だけだが、金上氏と同格とされる一門の針生氏についても同様である。
2016-04-23 17:01:10@aizuyakata 残存史料の絶対数が少ないため断言は躊躇われるが、これは前代までは金上針生両氏共に外交には携わっていなかったものが、盛隆の代になって取次に起用されるようになったと考えられるのではなかろうか。
2016-04-23 17:28:46@aizuyakata 故にもしかすると金上盛備も針生氏も、前代までは蘆名家の政権中枢にはいなかったのではないか?などとも思ったり…。
2016-04-23 17:30:30@aizuyakata この体制変更は本当に盛隆の代(盛氏死後)なのか、晩年の盛氏の影響下で始まったのか…それによって盛隆政権の見方はだいぶ変わるな。史料上確認できるのは盛氏の死去直前、微妙だ…。
2016-04-23 17:33:37ちなみに天正初め、金上氏と針生氏が正月の椀飯における席次を争って、盛氏と盛隆が仲裁したことは(ごく一部で)有名ですが、僕は何度か「仲裁の結果は不明」と書かれた本を見たことがあります(昔の事なので具体的には思い出せませんが)。実際原本は江戸後期には既に失われていたようです。
2016-04-23 17:34:54@aizuyakata 尚、一部引用するとこれには、 (前略) 一 十一日不限座敷之次第之事 一 客居者金上殿 付 先御出座之事 一 主居者針生殿 付 則御出座之事 (後略)(「新編会津風土記巻之十二」より) とあり、金上氏上位で決着したことがわかります。
2016-04-23 17:36:04