蘆名盛興の家督相続時期とその事績+その役割(妄想)

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三浦介 @miurano_suke

相変わらず蘆名成分が足りないので補充。とりあえず蘆名盛興の家督相続時期について…。 まず「新宮雑葉記」所収、永禄6年4月10日の「新宮葺替棟札」(『喜多方市史4』)に「当時屋形盛氏嫡男 盛興」とあり、

2018-01-02 10:52:57
三浦介 @miurano_suke

「勝福寺銅鐘銘」(『喜多方市史4-194』)に「当持大檀那平盛興 并隠居盛氏」「永禄七年甲子◻︎◻︎◻︎(季夏日)」とあるところから永禄6年4月11日以降、翌7年6月末までの間に家督の継承が行われたのは確実である。

2018-01-02 10:53:31
三浦介 @miurano_suke

しかしやっぱり気になるのは伊達輝宗の家督相続がほぼ同時期と思しいこと。何かしら関係・影響があったと考えたくなるところだけれど…。 twitter.com/miurano_suke/s…

2018-01-02 10:57:09
三浦介 @miurano_suke

蘆名盛興は父親の盛氏の陰に隠れて影が薄いと言われているけれど、一次史料を漁ると決してそんなことはない。何しろ蘆名家の全盛期は永禄9年以降天正元年辺りまでと考えられるが、これはまさに盛興家督の時期であり、その盛期は盛興の病臥によって終焉を迎えるという点は見逃せないと思う。

2018-01-02 13:50:23
三浦介 @miurano_suke

実際に蘆名家の軍事活動が最も活発だったこの時期には盛興の発給文書が結構残っているし、現状ほとんど盛氏宛てとして考えられている「蘆名殿」宛ての文書の中には詳細に検討すれば実は盛興宛てと考えてよいものがかなりあるんではないかと思われる。

2018-01-02 13:55:21
三浦介 @miurano_suke

盛興家督期の蘆名家関係の文書や記録には「岩崎」や「蘆名東殿」といった宛名、「蘆名西殿」といった呼称が見られる。このことからすれば「蘆名殿」が全て盛氏を指すとは限らないと考えた方がよいのではないだろうか。

2018-01-02 14:00:35
三浦介 @miurano_suke

家督相続後の蘆名盛興は特に軍事面での活動が目立つ。因みに例を挙げれば永禄7、8年の長沼を巡る攻防、永禄二桁年代の石川郡侵攻、そしてその後の佐竹氏との攻防となるが、これらは全て、まさに蘆名家の名声の上昇に直結したと言って過言ではない戦いである。

2018-01-02 14:15:31
三浦介 @miurano_suke

蘆名盛興は永禄7〜8年、岩瀬郡長沼城を巡る攻防に父盛氏と共に出陣している。自分が知る限り盛興の名が出る最初の軍事行動である。

2018-01-08 16:41:35
三浦介 @miurano_suke

この頃(永禄7、8年のいずれか)の端午(5月5日)付、岩城親隆書状(『いわき市史8』57-13)において「盛興惣手同前被納馬候哉、依之各帰陣之事」と盛興が納馬したので帰りたいという麾下の武将に対し、

2018-01-08 16:42:18
三浦介 @miurano_suke

岩城親隆が「但盛氏于今在陣」「漸数日之在陣、更不及申候」と盛氏がまだ居るからもう数日在陣するようにと伝えている。

2018-01-08 16:43:25
三浦介 @miurano_suke

普通に考えれば盛興1人が帰陣したからといって「もう守らなくていいだろう」となるはずはなく、この時盛興は盛氏と共に出陣したとは言うものの、お飾りではなく既にある程度の規模の兵力を率いていたと考えていいのではないだろうか。

2018-01-08 16:43:47
三浦介 @miurano_suke

尚、この長沼城を巡る攻防の末、永禄9年に伊達家に送られた起請文があるが、盛氏の物とは別に盛興単独の起請文もある。やはり盛興は盛氏の庇護下にありながらもある程度自立した権力をこの段階で既に持っていたのかもしれない。

2018-01-08 16:47:27
三浦介 @miurano_suke

続く永禄11年の石川郡制圧を越後上杉氏に伝える蘆名家臣、平田常範の書状(『石川町史 資料編1』311)には「盛興父子」とあり、盛氏よりも盛興が前面に出されている。

2018-01-08 16:48:07
三浦介 @miurano_suke

また元亀元年と思われる田村氏と共同での南郷寺山城・羽黒山城攻めについて記した蘆名盛氏書状(『福島県の古代・中世文書』128-11)には「寺山清顕盛興馬廻ヲ以テ押置羽黒及行」、敵2000を追うなど、この戦で大活躍したことが記されている。

2018-01-08 16:48:57
三浦介 @miurano_suke

そしてこの後元亀2、3年には蘆名家による石川郡攻略が本格化するのだが、その先兵となった大寺石川氏との交渉は専ら盛興の主導で行われた様子が窺える(『石川町史 資料編1』329、330、331)。

2018-01-08 16:54:27
三浦介 @miurano_suke

この他にも伊達家や越後上杉家との外交文書も残されている。 家督相続後の蘆名盛興は決して実権のない飾り物などではなかったと言えるのではないだろうか。

2018-01-08 16:55:06
三浦介 @miurano_suke

で、こっからは単なる妄想なんだけど、永禄後期からの蘆名家の興隆が盛興あればこそと思う理由。

2018-01-08 19:50:02
三浦介 @miurano_suke

まず、以前述べたように、天文から天正初期までの蘆名家はどうやら金上、針生といった有力一門に大きな権限を与えていなかったと思われる。残された書状等を見ると宿老たちも「蘆名家」の意思の執行者に過ぎず、当主の意思や権力を代行することはできなかったように感じられる。

2018-01-08 19:51:20
三浦介 @miurano_suke

その為、蘆名家には当主以外に大軍を率いることができる人物がいなかった。つまり本格的な合戦には盛氏自らが出陣するしかなかった。

2018-01-08 19:51:59
三浦介 @miurano_suke

これが佐竹家との争いで不利だったり、勢力が小さい田村家に手こずらされたりしてた最大の原因だと思ってるのだけど、盛興の存在はこの弱点を解消したんじゃなかろうか。

2018-01-08 19:52:41
三浦介 @miurano_suke

盛興が蘆名家の2人目の指揮官となることによって、永禄の長沼城を巡る攻防や元亀の南郷侵攻に見られるように二方面で同時に軍事行動が取れたり、交互に在陣することで軍事行動を長期間継続することも可能になった、と見える。

2018-01-08 19:53:21
三浦介 @miurano_suke

また、盛興が前線で戦ったり合戦にまつわる実務をこなしている間も、盛氏が後方で滞りなく外交や調略を行うことができるようにもなったろう。これが蘆名家興隆に繋がった一つの理由なのでは…。

2018-01-08 19:54:19
三浦介 @miurano_suke

実際に盛興が盛氏と共に軍事指揮官として活動し始めた永禄後半から、病に倒れる元亀末から天正初年あたりまでは、それまでの苦戦が嘘のように一転して佐竹家との戦いが優位に進み石川郡を制圧、佐竹の直轄領である南郷に攻め込んで勝利するまでになっているわけだし。

2018-01-08 19:54:41