- takekawa_yu
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今日は太郎晴信の誕生日でした。ということはこの前後で飯田河原、上条河原合戦の真っ只中だったということ。武田方、今川(福島)方ともに寒かったろう。ちなみに、生まれた時彼が嫡長子では「なかった可能性」については、『虎の牙』で重要なファクターになっています。明日はその話などできれば。
2017-11-03 22:36:18信虎の戦歴でも劇的逆転勝利をおさめるこの二つの合戦、作中ではさらっと扱っています。理由は、直前の大島合戦から飯田河原まで約1ヶ月、飯田河原~晴信誕生~上条河原までそれぞれ約2週間ずつあいており、一連の合戦として描写するにはやや間延びする感が否めないからです。
2017-11-03 22:42:16上条河原合戦では、荻原常陸介が藁人形をたて、少ない兵数を多く見せ大勝に貢献したという孔明じみたワクワクする言い伝えもあり、小畠・原が大功をあげる合戦だったので、書いてみたい気持ちは多々あったのですが。
2017-11-03 22:52:16#虎の牙事典 ネタバレ⑥【竹松と信良】 信虎の長子と目される武田竹松は晴信(信玄)より4歳年上。7歳で死去するまで嫡男であった可能性がある。作中竹松は信友猶子→今井信甫猶子となる。永禄3年(1560)に内通の疑いで処断された「かつぬま五郎殿」は従来勝沼信友息と考えられていたが(続
2017-11-04 20:58:40#虎の牙事典 ネタバレ⑥【竹松と信良】 続)勝沼信友のあと勝沼に入った今井信甫の息の可能性が指摘されている。「かつぬま五郎」の同心被官280騎は、武田信豊や穴山信君200騎より多く、跡部勝資300騎に匹敵し、家中最大規模。その処断は大事件のはずだが、現段階では不明なことも多い
2017-11-04 21:05:07あと信良を「石和五郎の諱」と表現した箇所(P280)がありましたが、誤りです。勝沼信元と混同しました。お詫びして訂正します、申し訳ありませんでした。
2017-11-04 21:08:36#虎の牙事典 ネタバレ⑦【南麓ルート】 信友、虎胤らが籠坂峠へ向かうために使った富士の南麓ルートは、国道469号線とほぼ同じルート。現在の静岡県富士宮市稲子あたりから急激に標高が上がり、愛鷹山の麓、標高600~800メートルを東に進む。当時は修験者などしか通らぬ道なき道であった
2017-11-05 21:13:29#虎の牙事典 ネタバレ⑧【愛鷹山】 ※作中核心に触れています※愛鷹山は黒岳、越前岳、呼子岳、鋸岳、位牌岳、前岳、袴腰岳、大岳そして愛鷹山の八つの連峰をもつ山塊の総称。一番北側の越前岳は標高1504m。富士山より旧い火山で富士山の裾野にのちに取り込まれた。金目の羚羊の神体であり住処
2017-11-07 19:36:49#虎の牙事典 ネタバレ⑨【越中守と出羽守】 小山田家は三代続いて諱が信有で、家系の錯綜がある。作中では越中、出羽は異母兄弟とした。越中が正室の子、出羽は側室の子でまだ20くらい。越中は矢坪坂合戦以来脚が不自由なため、もしもの時は自分が殿になり若い出羽を逃がすつもりで山中合戦に出陣した
2017-11-08 20:44:27#虎の牙事典 ネタバレ⑩【もう一人の信友】 信虎が駿河に追放されてから生まれたと思われる息子に、信友という一子がいる。後に甲斐に帰参し、武田家滅亡まで信玄・勝頼に仕えた。誰が信友の名を与えたのかは分からないし、信友という諱自体、武田家に複数いるが、色々考えさせられる名ではある。
2017-11-13 20:32:14#虎の牙事典 ネタバレ⑪【今諏訪合戦の大ケヤキ】 今諏訪合戦で信友と曾根大学助が登り、大井方の動向を探った大ケヤキは南アルプス市寺部に実在する。国の天然記念物に指定されており根回り16m、樹高21m、樹齢は約1000年。日本で2番目に大きなケヤキだという ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89…
2017-11-21 19:25:38ショートショート
キサチ
市の隅で茣蓙を広げて小豆売りをする。時折女が立ち寄り「もっと安くしておくれよ」と次いで「旭山、五百」と呟いて去っていく。今井の兵数は二千ほどか。旭山は今時分、茸を採って茸汁にしたら旨いであろう。楢の実を食いにきた熊を撃つのもいい。キサチは、耳の奥で落ち葉の踏みしだく音を蘇らせる。
2017-11-01 08:36:51郷左右衛門と立派な名前を貰ってから、寒い、ひもじい事はなくなった。それでも秋になれば、少しの菜っ葉にヒラタケ、ナラタケ、ナメコにアミタケを鍋の底が隠れるほど立て、煮たのが食いたい。溶き入れた味噌の粒が汁に舞うのを、ふうふう吹いて啜りたい。そうして、思い浮かべた山へ己を溶かし込む。
2017-11-01 08:53:32長元
細雪は、河原に佇む人々の肩に積もっていた。 砂利に折れかかる枯草も、この夏河原で磔にされ首の引きとり手がなかった頭骨も、ひとしく覆い隠されて、灰色や柿色の襤褸をまとい身を寄せあう人の吐く息が、ひと固まりに流れてゆくばかりである。 「又舍利弗 極樂國土 衆生生者 皆是阿鞞跋…」
2017-11-02 19:54:41甲府の西の相川の橋のたもとで、もう二刻も阿弥陀経を唱えている。橋を渡る人が手を合わせて銭を置くと、軽く会釈して鼻の頭に積もった雪が落ちた。 河原から柿色の衣の者がいざり登ってきて、僧に手を合わせ、三度四度と頭を下げて銭を拾う。 ただ経が、白く塗りこめられる巷間を渡ってゆく。
2017-11-02 19:57:30教来石景政
武川では相撲は誰よりも強かったし、手綱をとれば誰よりも速かった。十五で甲府へ行けとおじじ様に言われて教来石景政は躑躅ヶ崎館へ出仕した。甲斐じゅうから猛者が集まった。相撲大会で景政は猛者を片っ端から投げ飛ばしたが、酔って飛び入った小畠という足軽大将と組み合った瞬間、青空を見ていた。
2017-10-21 22:16:47原能登守友胤
見舞い状の宛書きは「能登守殿へ」とあった。濃く流れる文字に目を遣り、原能登守友胤は床から這い出て足を引きずり文机へ向かった。文箱を開けて墨の香りを嗅ぎながら古い文を探しだす。「はらのおとうへ」と書かれた、差出人の同じ虫食い文を手に、友胤はこみあげる笑いをひとり噛みしめていた。
2017-10-21 07:39:41多田淡路守満頼(三八郎)
雲海から伸びる石柱の天辺に、鑓で心臓を貫かれた人がぶら下がっている。赤黒い顔に犬歯が動く。「我らを射殺し、武田はどこまで伸張するか多田淡路」。多田淡路守満頼は石柱にもたれ「北の海までだろ」と呟いた。里者は天狗だと言うが、はぐれの三ツ峯者の末路を、多田は息が絶えるまで見ていた。
2017-11-17 19:27:21各地の山には天狗の伝承が多く残りますが、そのいくらかは山に暮らす漂泊民であったり、里を追われた者であったそうです。アケヨのいた南アルプスの西側、伊那地方にも、山人、天狗と呼ばれた人々の言い伝えがあるそうです。そしてその目撃談は割と最近、戦前くらいまであったとか
2017-11-17 19:32:18