山梨県立博物館『甲府徳川家』と武田の城図面常設展示。20171007

山梨県立博物館『甲府徳川家』展の気になることまとめ。
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日光81 @nikko81_fsi

甲斐が徳川家に占領されました感。なんだか茶香炉で茶葉を燻したような甘い香りがする。甲府徳川家展。 pic.twitter.com/FDCsUg1hhL

2017-10-07 11:47:03
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日光81 @nikko81_fsi

エントランスなかなか凝ってます。 pic.twitter.com/vwsrLScPaG

2017-10-07 11:49:35
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日光81 @nikko81_fsi

ごめんねごめんね〜Twitter派なの。膨大な検地帳、3500冊。 pic.twitter.com/gPBxcNHW7C

2017-10-07 11:58:07
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日光81 @nikko81_fsi

甲府徳川家。四代将軍家綱の弟徳川綱重が甲斐山梨郡、巨摩郡、信濃佐久郡を与えられたのが1651年(慶安4年)で15万石。後、甲府城主となり、信濃高井郡、小県郡、甲斐八代郡加増で10万石、さらに近江や駿河も加増で計35万石。綱重が甲府城を与えられたのは1661年(寛文元年)。

2017-10-07 13:08:57
日光81 @nikko81_fsi

この寛文元年、信玄公百回忌に向けて武田遺臣らにカンパを求め、三枝守俊や小幡景憲が奔走したであろう年。後に百回忌が営まれる1672年(寛文十二年)、家綱将軍から寺領寄進を受けていて、家綱と綱重の親しさ(当時御三家より年頭拝賀が先)を考えると何かあるかな?など想像。

2017-10-07 13:13:36
日光81 @nikko81_fsi

さらに同じ1672年やその前後の甲斐徳川家支配下の甲斐國の徴税の重さを示す借金証文など。信玄公百回忌に群衆が集まるその当時、甲斐國は辛かったのだろうが、その民衆の慰撫のために恵林寺が信玄公百回忌を企画したと考えるのは妄想にすぎるだろうか?

2017-10-07 13:18:25
日光81 @nikko81_fsi

甲府徳川家は甲斐全域を支配しておらず、綱重の子綱豊が五代綱吉から後継指名を受けた後、郡内谷村藩秋元氏が川越に移封、代わって川越から柳沢吉保が入府。谷村藩領も吉保預かりとなり、甲斐一国が再びまとまる。

2017-10-07 13:22:01
日光81 @nikko81_fsi

元禄の頃辺りから藩祖・初代藩主を顕彰する動きがあったらしいが、甲斐國では信玄公がその役目を負うことになったらしい。『武田信玄公以来甲斐國御領主代々鑑』(安永二年、1773年)なんてのはその流れだろう。ちょうど信玄公二百回忌の翌年、柳沢氏の武田氏との連続性主張との関連を伺わせる。

2017-10-07 13:30:05
日光81 @nikko81_fsi

あと展示で気になるところ幾つか。徳川綱重十三歳の筆。割と署名の字に幼さが残る。

2017-10-07 13:32:58
日光81 @nikko81_fsi

徳川綱重って、死後に征夷大将軍を追贈されてるんですってね!息子の綱豊が家宣となって将軍になったのもあるんですが、太政大臣近衛基熙との良好な関係あってのこと。将軍位追贈なんてあるんだとビックリ。

2017-10-07 13:35:26
日光81 @nikko81_fsi

新井白石。父が久留里藩土屋利直幕下らしい。土屋ということは武田に関係あったのかな。後に父子ともに牢人、白石は師の推挙で徳川綱豊に仕え、綱豊が将軍家宣となると幕政を担う重鎮になっていく。へぇ‥正徳の治と江戸城天守再建を考えてた人ってイメージしかなかった(汗)

2017-10-07 13:38:58
日光81 @nikko81_fsi

新井白石が筆をとった『東照宮』。それまで東照社と呼ばれていたのをより位の高い宮号へとした。徳川将軍家の威信を維持するにあたり、神君家康のさらなる顕彰を必要とした‥江戸城天守再建もある意味その更なる威信を必要とした事情にあるのかもしれない。

2017-10-07 13:42:06
日光81 @nikko81_fsi

で、その新井白石像。ものすごいわたし的には高橋和也氏を思い出させる…てことは馬場美濃守…馬場さん何してはんの!?みたいな軽い混乱(笑)

2017-10-07 13:46:25
日光81 @nikko81_fsi

江戸幕府老中奉書写。能大好き綱吉が津和野藩主亀井茲政に…明日能やるから見に来いよ、を老中を介して伝える内容。急すぎる…解説にいきなり呼び出されて、褒めちぎるしかなかったであろう、さしずめ現代の接待ゴルフやカラオケとあってつら。。。

2017-10-07 13:49:43
日光81 @nikko81_fsi

で、甲府徳川家から将軍になった家宣も将軍になってから約七年で3600回以上の観覧、583回の実演…という凄まじい能ヲタク。3〜4日に一度は能を見たり演じたり。あ、あ、あ…能といえば真田丸の宇喜多秀家…(笑)

2017-10-07 13:53:13
日光81 @nikko81_fsi

常設展にある限定展示。井伊直政による甲斐衆所領安堵の徳川家朱印状と甲陽軍鑑巻十六『御献立之次第』の再現。巻十六は軍鑑成立時にはなく、刊行本発刊時に追加されたらしく、天正から江戸初期くらいとな。確か山梨県立博物館の紀要に論文あった気がするな。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2017-10-07 15:17:57
日光81 @nikko81_fsi

まぁそんな時代の差がないから、まー武田もこんな感じじゃね?でとりあえずいいような気はする(笑)鳥の丸焼きとか美味そう。数の子や鱧の味噌漬け、鶉姿焼、鯛焼き魚、伊勢海老‥鮭やタコやアワビももりもりのご飯みたいな山盛りになってんのがすごい。これすごいボリュームよ。

2017-10-07 15:22:49
日光81 @nikko81_fsi

竜王村文書?からなぜか遠州諏訪原古城図。年代不明。が、重要なのは縄張りのうち、黄色に塗られた点。古文書の素養がないのでなかなかわからないが、古□□八○とあるの。八○は他にも六○と五○とかあるから何かの単位だろう。間(けん)ではない。しかしこの黄色部分‥…

2017-10-07 15:32:21
日光81 @nikko81_fsi

黄色部分、徳川による諏訪原城増築前の縄張りを表しているのではないか?と感じます。実際デカイ丸馬出で発掘調査から徳川と判断された二の曲輪大手馬出、同中馬出、北馬出、南馬出、東馬出、大手曲輪、大手外馬出には黄色着色がない。

2017-10-07 15:38:25
日光81 @nikko81_fsi

この図によれば、本曲輪、二の曲輪、そして本曲輪から西側に段々と曲輪帯曲輪が二重に巻いており、本曲輪に虎口があって帯曲輪に通じている。これも黄色着色。そして丸馬出は二の曲輪東内馬出のみ。やはりか…これなら他に見てきた特に駿河遠江の丸馬出の城と比較しても違和感がない。

2017-10-07 15:44:10
日光81 @nikko81_fsi

この諏訪原城図、静岡にお住まいのお城好きなフォロワーさん方にぜひ見ていただきたい…面白い図。

2017-10-07 15:45:23
日光81 @nikko81_fsi

あと、頼生文庫から『武田甲斐國領土出城見取図』のうち、駿河江尻城。もう小県の岡城や川中島の北、長沼城そっくりすぎる。まだ背面に川、三方向に丸馬出。いずれの城も地域の拠点となり、駐留した軍勢も多いと思われるし、支配の中心拠点的な城には複数丸馬出あったのかもしれないなぁ。

2017-10-07 15:52:10
日光81 @nikko81_fsi

逆に言えば、諏訪原城は重要な城ではあるが、補給拠点であって地域支配中心にはならない。駐留できる兵数も限られるから丸馬出いっぱいつくるとそれだけ分散されちゃう。背後だけでなく他方も崖や自然地形ないなら横堀で遮断し、一方向に敵を集めるよう誘導、そこに丸馬出を、と。勝手な解釈楽しい。

2017-10-07 15:55:14