「日常」と現代美術、その後、「日常」の初出をめぐるTL

まとめて読みたかったので集めました。不足分、不要な部分は適当に追加・削除してください。田中功起
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urara_nakamura @pas_pascal

@oqoom 100パーセント正しいかどうかはわからない。1「日常」は「漢語」であること。2漢語の多くは江戸後期〜明治時代に作られた。3漱石が『草枕』で使っている。この三つの事実を重ね合わせた推論です。

2011-03-30 21:33:49
Kajiya Kenji 加治屋健司『絵画の解放 カラーフィールド絵画と20世紀アメリカ文化』 @kenji_kajiya

ありがとうございます! ということは室町にあったということかな。中国にもあるけど意味が違いますね。 RT @bmonkey1966: @kenji_kajiya 大漢和での「日常」 http://bit.ly/gbyFRb

2011-03-30 21:38:19
佐藤守弘 @bmonkey1966

『諸橋大漢和』での「日常」の定義。2は「つねひごろ。ふだん。平常」で今使っている意味だが、1は「太陽は恒常で変らない。永遠に変ることのない喩」と、人類スケールを超えた定義。

2011-03-30 21:40:27
Kajiya Kenji 加治屋健司『絵画の解放 カラーフィールド絵画と20世紀アメリカ文化』 @kenji_kajiya

「日常」についてお調べくださった方、リツイートしてくださった方、ありがとうございました!

2011-03-30 21:41:20
佐藤守弘 @bmonkey1966

中国における「日常」と「Everyday」の比較は面白いかも。RT @bmonkey1966: 『諸橋大漢和』での「日常」の定義。2は「つねひごろ。ふだん。平常」で今使っている意味だが、1は「太陽は恒常で変らない。永遠に変ることのない喩」と、人類スケールを超えた定義。

2011-03-30 21:43:46
佐藤守弘 @bmonkey1966

「日常/Everyday」 ということで、スライ&ファミリー・ストーン「エヴリデイ・ピープル」。歌詞付きでどうぞ http://www.youtube.com/watch?v=Q-ZIVNouSXs

2011-03-30 21:47:01
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okumura yūki @oqoom

日常のこと、ありがとうございました!あとで見直しますー。 @kenji_kajiya @bmonkey1966 @Koji_ks

2011-03-30 21:48:50
Kajiya Kenji 加治屋健司『絵画の解放 カラーフィールド絵画と20世紀アメリカ文化』 @kenji_kajiya

本人も同じ版を持っているんだけど、実家にあるそうです。でも、かなり欲しくなってきたな。 RT @bmonkey1966: しかしマリさん、よう覚えとるね。

2011-03-30 21:50:08
Kajiya Kenji 加治屋健司『絵画の解放 カラーフィールド絵画と20世紀アメリカ文化』 @kenji_kajiya

ありがとうございます!有名な討論会ですね。読んでいないので、手に入れてみたいと思います。 RT @yuki_tomi: 『カメラ毎日』1968年6月号で組まれたコンポラについての特集の、討論会(石元さん、藤知巳さん、岡田隆彦さん、高梨豊さん参加)で触れられています。

2011-03-30 21:57:58
Kajiya Kenji 加治屋健司『絵画の解放 カラーフィールド絵画と20世紀アメリカ文化』 @kenji_kajiya

補足すると、「日常」の概念(言葉そのものではなく)は鴨長明まで遡れるだろうと妻が言っています。

2011-03-30 22:36:38
〇〇〇〇の @kirisyu

昔アートなんて日常だ!なんて言ってたくちだけどその前に日常が無いことに気付いた。

2011-03-31 02:46:46
田中功起 koki tanaka @kktnk

「日常」そんなに昔から。それも全く反対の意味でも使われていたとは。勉強になりました。 @pas_pascal @koji_ks @kenji_kajiya @bmonkey1966 @oqoom

2011-03-31 04:23:45
大村益三 @omuraji

しかし「日常に」と「日常から」は異なる。そして「日常に」は「日常から」よりも遥かに険しい道になる。それは「日常」に「モチーフ」を求める事(「日常から」)と、「日常」という在り方そのものを変換する(「日常に」)の違いに由来するからだ。「日常から」のみでは「日常に」にはならない。

2011-03-31 06:56:22
大村益三 @omuraji

「日常」のそもそもが、古い辞書に収録されるかされない程に「意識される」ものではなく、寧ろ遡行的な「発見」に基づくものであるとするならば、そもそも「理性(アドルノ的)」の「意識」の産物である「芸術」が、そこに如何に関われるか関われないかが問題になる。否、関わらなくても良いのだが。

2011-03-31 07:03:01
大村益三 @omuraji

大体「芸術」の言う「日常」が、「為にする」もの以上であった事があるのだろうか。

2011-03-31 07:05:05
大村益三 @omuraji

機能としての「癒し」に「堕し(モダンの理念的には「堕落」)」、そこに「埋没(モダンの理念的には「堕落」)」する事を潔しとするか否かという、それもまた「エティック」な選択。

2011-03-31 07:09:51
大村益三 @omuraji

1930年〜40年代の「近代の超克」論と、「これから」の「近代の超克」論が異なるとするならば、それは「これから」のそれが、嘗てのそれよりも体制的に「求められない」様な「孤独」な問いであり、且つラディカル(自身の「存立基盤」をも「批判」の対象とする)なものである事を前提にする。

2011-03-31 07:18:17
大村益三 @omuraji

「日常」は、「芸術」にとってこれまで以上に「孤独」な問いになる。

2011-03-31 07:19:27
大村益三 @omuraji

いつか「日常」が回復される事があるかもしれない。それは100年の大計に於いて正しい選択であるかもしれない。しかし1000年の大計ではどうなのか。或いは1万年、10万年の「日常」は、100年の大計に基づく「日常」とピッタリと合わさるものだろうか。

2011-03-31 07:22:29