野口晴哉のエピソードと型と式における先人の経験について

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光岡英稔 @McLaird44

先ほどの甲野先生のツイートを読んでいて野口整体の創始人・野口晴哉先生のエピソードで最近改めて聞いた話を思い出す。野口晴哉先生は、ある時期まで自分の整体で治せない人などないのでは?と感じておられた時期があったそうだが、その天狗になっていた鼻をヘシ折られるエピソードがある。⇒

2018-02-04 23:44:05
光岡英稔 @McLaird44

それは、ある日いつも通り、あるお婆さんが操法か癒気を受けに来た時のことだった。そのお婆さんに操法か癒気を施すため身体に触れた瞬間、お婆さんが勝手に動き出し、動き終えたあとに「野口先生ありがとうございました。本当に良くなりました」と言われ本当に整いを戻し帰って行かれた話しだが、⇒

2018-02-04 23:48:08
光岡英稔 @McLaird44

この時に野口晴哉先生は自分が何も施してない内に、お婆さんが勝手に良くなってしまったことに驚きを隠せず、そこで「人は人を治すことができないこと」を悟ったとのエピソードがある。⇒

2018-02-04 23:48:45
光岡英稔 @McLaird44

あと一つは、ある子供のオネショを直したら、その子に窃盗癖が出てしまった話である。⇒

2018-02-04 23:49:15
光岡英稔 @McLaird44

そこからが、さすが野口晴哉、自分が過去に施術した人たちの“その後の行動”を調べたらしいが、そこで、ある問題を治すことで全く別の形で問題が生じることが明らかになり、ここでも改めて「人を治すことができない」ことを悟られたとのエピソードがある。⇒

2018-02-04 23:49:57
光岡英稔 @McLaird44

この後者の方は確かに、少し分かる気がする。ある癖や習慣を断片的に抑制することで、その抑制が別の感情や感覚、気持ちなどを引き起こし、どこか別の場所に別の形で出て来てしまい、他の問題を引き起こすことは珍しいことではない。⇒

2018-02-04 23:54:56
光岡英稔 @McLaird44

これは相当な自省力や意志があったとしてもツイ行動に出てしまったり、癖や習慣を抑制すると潜在させた欲求が姿形を変えて悪化した形で表へ出てしまう。⇒

2018-02-04 23:57:31
光岡英稔 @McLaird44

しかし、前者のお婆さんが勝手に良くなった話しは、私の考えでは野口晴哉先生の技量が自らの意志や感覚でさえ届かないところへと行き、本当に僅かに触れるか触れないか程度で相手に影響を与える所まで、野口整体を深化させたのではないかと考えてしまう。⇒

2018-02-04 23:58:11
光岡英稔 @McLaird44

私のような部外者の勝手な知見でしかないが、野口晴哉先生ご自身も自分の気づかない所に生命の源があり、その自らの研ぎ澄まされた感覚でさえも理解できない身体の深淵を垣間見たのではないかと私はなどは考えてしまう。⇒

2018-02-04 23:59:44
光岡英稔 @McLaird44

この事が、同じかどうかは分からないし、天才・野口晴哉を分かったつもりになど到底なれないが、最近になって武術において私も分かって来たことが少しある。⇒

2018-02-05 00:01:39
光岡英稔 @McLaird44

それは、この野口晴哉エピソードに対する私の知見とも関係していることだが、⇒

2018-02-05 00:02:36
光岡英稔 @McLaird44

最近は武術における相手との接触観について色々と試しているのだが、技が一番相手に結果として効いている時が、この接触間が「あるか無いか」のギリギリ触れるか触れてないかの間合いの時であり、この接触感を型が私の輪郭と形を通じて観せてくれていることが分かって来た。⇒

2018-02-05 00:07:48
光岡英稔 @McLaird44

その接触間の距離だと相手に技が結果として掛かったり、形に入れたり、型が結果として何故か成立したりする。⇒

2018-02-05 00:08:53
光岡英稔 @McLaird44

また、その接触間を作るのには自身に対する丁寧さが必要となり、その自身に対する丁寧さが結果的に相手に対する丁寧さから導き出されることが分かり、結果として相手に丁寧でないと型や技が成立しないし、勝機が見出せないことが前より少し分かって来た。⇒

2018-02-05 00:12:25
光岡英稔 @McLaird44

そして何より型や式と言った先人の経験の痕跡に対して丁寧さが要求されることも分かって来た。この先人たちとの接触間は、築かれた型との間合いが取れてるか否かに問われる来る。⇒

2018-02-05 00:16:04
光岡英稔 @McLaird44

武術にせよ、何にせよ先人が居る訳である。本人は、全ていきなり自分が気づいたかのよう勘違いするほど教わった感がないかもしれないが、実は自分が教わったことを覚えてないだけであり、自らの発見がナゼ見つかったのか、その因果関係が自省自覚できないだけである。⇒

2018-02-05 00:17:55
光岡英稔 @McLaird44

しかし、このことには良い側面もあり、この発見の因果関係の分からなさが一時的な技の向上や即効性をもたらし、経験的な自己満足を私たちに与えてくれる。この事が更に自分が出来る技や発見したことの因果関係へ向けての探究や研究になれば、その人の自省にも繋がって来るだろう。⇒

2018-02-05 00:18:50
光岡英稔 @McLaird44

これが、晴哉先生のエピソードのように訳も分からぬ内にお婆さんの身体が整い「先生よくなりました、ジャンジャン」で終わるなら、お婆さん側は良いのだが、相手が武術/武道の生徒、指導者の場合には「できました、発見しました、ジャンジャン」で終えてしまっては多いに問題がある。⇒

2018-02-05 00:21:16
光岡英稔 @McLaird44

その経験は修行者や指導者としてはスタートラインか、下手するとスタートラインにでさえ立ててない状況でしかないからであり、ここで喜んでる場合ではなく、ここからこそ武、身体、生命の追究や探究が始まるのではないだろうか。⇒

2018-02-05 00:21:58
光岡英稔 @McLaird44

そこは意図的な領域としても、また潜在的にも十二分に気を配って指導者も生徒も取り組んで行かなければならないことは確かだろう。先人から残された古の経験の痕跡を駆使して型、式、稽古を通じて自身が無自覚に築いている基礎への自省を行うことが稽古と呼べるだけのものではないかと私は感じている。

2018-02-05 00:24:00