@S_uekai <私の存在>について<語る私>が分からなくても、分かる部分と分からない部分をしっかり区別して相手に伝えれば良い。コミュニケーション能力としては完ぺきだよね。
2011-04-10 03:54:50いや、ちょっと待て、この議論は自分とのコミュニケーションに限定されていたと思うぞ。RT @rappappa: 私の存在について語る私が分からなくても、分かる部分と分からない部分をしっかり区別して相手に伝えれば良い。コミュニケーション能力としては完ぺきだよね。
2011-04-10 03:57:52@S_uekai 彼らにコミュニケーションは成立してるんだろうか。http://www.youtube.com/watch?v=_JmA2ClUvUY
2011-04-09 09:51:19これはコミュニケーションが成立しているように見える。自分には理解できないのに。しかし、これがまともな言語表現でないことは明らかだし、問題は、そもそもこれが言語なのかという点である。
2011-04-10 04:08:41言語かどうか怪しいというのは、この記号列のどこからどこまでが単語なのか、つまり発話の区切りが不明だというところ。この2人のそれぞれのツイートがこれで1つの発話なのかもしれない。
2011-04-10 04:10:35@S_uekai 言語ではないんじゃない?自分がさしてるものを強調したい時に「たーたーたーたーたーたー」って言ってるだけかもしれない。あの声が強調を表してて、身体が何か訴えてるような違うような 。気のせいか。かんぜんに可能性のレベルだ。
2011-04-10 04:15:07@S_uekai あ、コミュニケーションできてないわ。絶対伝わってないもん。ただ何かが言いたいってことだけはわかった。そのレベルでのコミュニケーションができてる。コミュニケイシーンが始まってるとも言えるかもしれない。要はコミュニケーションを広く捉えればなされてるかもってことです。
2011-04-10 04:18:25@S_uekai 少なくとも言語が無いとコミュニケーションが出来ない訳ではない。あの例は身体で表現したり出来ないからああなってるだけ。
2011-04-10 04:22:39言語を含む「記号」によってコミュニケーションは成り立ってるのですね。RT @rappappa: @S_uekai 少なくとも言語が無いとコミュニケーションが出来ない訳ではない。あの例は身体で表現したり出来ないからああなってるだけ。
2011-04-10 04:25:22身も蓋もないことをいえば、あの双子がコミュニケーションをしているかどうかは判断できない。というより、どう判断するかはこっちの自由だ。問題はあの動作が理解可能であると信じるかどうか。理解可能だと信じる人にとってはまだコミュニケーションである可能性が開かれる。
2011-04-10 04:19:57反対に、理解できないと突き放す人にとってはコミュニケーションではない。…まったく、なんて結論なんだろ。。野矢さんはこの「理解できる可能性を信じる」ことを「根性がある」と表現してたと思う。不正確ですが。
2011-04-10 04:22:29@S_uekai 記号(きごう)とは情報伝達や思考・感情・芸術などの精神行為の働きを助ける媒体のことである。 狭義には、文字やマークなど、意味を付された図形を指すが、広義には表現物、ファッションや様々な行為(およびその結果)までをも含む。
2011-04-10 04:29:52理性は記号を通すことでのみ機能する。感性は記号を通さずとも機能する。そう考えると感性は主観的主体、理性は客体的主体的だ。しかし、感性と理性を統合した主体が存在しなくてはいけない。どうすりゃいいんだ?
2011-04-10 04:36:37間身体性とは何か。具体例でいいます。自分の右手で左手を触れた時に、右手が触ったのか左手が触ったのかわからない状態。この時、右手も左手もお互いに相手に触れたという次元を超えて、一つの身体になっている。身近な話でいうと「二人三脚」とか「鉛筆と私」とか
2011-04-10 04:49:17@rappappa 記号は必要であると思う。それは語るという行為が客観性を要求するから。つまり私が語る私と語られる私に分裂する。
2011-04-10 04:34:31@rappappa そしてさらに言えば、僕はそういうふうに私が分裂することに対しても否定的。僕は僕のことを100%理解している。少なくとも僕にとっては。傍から見れば、あいつは自分のことを何もわかってないと思われるかもしれないけど。
2011-04-10 04:36:47