東日本大震災で経験したことを覚書1
- suguru_mashiro
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三月十二日。震災の翌朝、栃木に住む弟とも連絡が取れました。 弟の話によると母は無事実家に合流できたとのこと。私はこのとき心底ホッとしました。 三人は家が壊れてなかったため避難所に移ることもなくそのまま実家にいるとのことでした。 水が断水状態であることもこのとき聞いたと思います。
2011-04-12 07:16:14そのときの私は被災地には「給水車」が回り、水がどの世帯にも満遍なくいきわたるものだと思っていました。その考えは甘かったと後で思い知ります。 弟から「実家に電話したらあっさり繋がった」と聞いたので、さっそくかけてみましたが実家にも携帯にも繋がりませんでした。
2011-04-12 07:17:01どうやら準被災地扱いの栃木からは繋がるけれども、被災地から離れた富山からは一切受け付けない状態でした。 その後父の携帯から着信があったのですが、ちょうど運転中で出れなかったため、結局直接話が聞けたのは十四日になってからでした。
2011-04-12 07:17:58父が留守電を残しており、母は十時間かけて原町から山道を利用して四倉に辿り着いた、とだけ伝えられました。母の無事な声は確認できませんでした。
2011-04-12 07:19:11そして、この日別の不安要素が生まれました。 福島第一原発事故です。 原発の建屋が爆発したというニュースを見るまで、私はすっかり原発のことを忘れていました。 もしかしたら極力考えないようにしていたのかもしれません。
2011-04-12 07:19:57普段、ふとしたたとえ話で「もし原発が事故を起こしたら四倉まで影響がでるかもね」と言ってたくらいなのに、震災直後は津波の凄さに圧倒されてすっかり原発の存在を忘れていたのです。
2011-04-12 07:20:35私は土曜日も仕事でした。家族三人とも無事であることを会社に伝え、私は普段通り仕事をしていました。 けれど、原発の爆発のニュースが流れてからそのことで頭がいっぱいでした。 しかしずっとPCやテレビに張り付いているわけにもいかなく原発の最新ニュースを@で教えてほしいと呼びかけました。
2011-04-12 07:22:40原発のニュースは私にジワジワとプレッシャーをかけてきました。不安で不安で何度か苛々を吐き出していました。 しかし元のアカウントではフォロワーさんが日常に戻りたがっていました。 私は不安を吐露するためだけにこのアカウントを新しく作りました。
2011-04-12 07:24:11