中山信安(修輔)の話。

幕末の佐渡奉行組頭をつとめ、佐渡に戦火が及ばぬよう奔走した中山信安(後に新治県令、茨城県令)の生涯に関して調べたことなどのまとめです。
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銅折葉 @domioriha

佐渡勢の人にも聞きたいのですが幕末と明治維新の混乱の最中佐渡を戦乱から守った佐渡奉行組頭の中山信安(中山修輔)の資料を探しています。この人とマミゾウさんの話が書きたくて調べはじめて早1年半。そのものズバリ「中山信安」著:飯島竹雄という本があるらしいんですが影も形も見つからない。

2018-06-19 23:07:54
銅折葉 @domioriha

出身地がはっきりしないのと(多分本国は浜松藩、生まれは武蔵国)、神奈川奉行に出仕してからあれこれの役職を経て佐渡奉行の組頭になる(この時出世して幕府の名簿に載るようになった)わけですが、人となりがいまいち解らないんです。対外交渉と合理性を持って判断するタイプだったとは思うんですが twitter.com/domioriha/stat…

2018-06-19 23:24:17
銅折葉 @domioriha

#狸の北越戦争 まとめ - Togetter togetter.com/li/1083591 @togetter_jpさんから こういう感じのお話。(もっと前段階もこの後にもいろいろありますが

2018-06-19 23:25:38
銅折葉 @domioriha

推定……というか創造レベルですが、同名の飯島竹雄さんという方が佐渡のおけさ相好会という団体の会長さんをやっていらっしゃるのでもしかしたらこの方が書いたのではと思うんですが、うーむ。 twitter.com/domioriha/stat…

2018-06-20 00:19:02
銅折葉 @domioriha

中山信安(修輔)の資料を探してますツイートが微妙に伸びており、反応していただいた方々には心より感謝したいところです。今のところ解っていることをまとめる意味でちょっとつぶやきます。

2018-06-20 21:14:50
銅折葉 @domioriha

中山信安(修輔)ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD… 幕末に佐渡奉行鈴木重嶺のもとで組頭を務めていた幕臣。維新の動乱で、金山を擁していた佐渡が旧幕府軍と新政府軍双方から干渉を受ける中、双方と折衝を行い中立を保って佐渡を戦乱から守り抜いた。

2018-06-20 21:18:51
銅折葉 @domioriha

中山信安(修輔)が歴史に大きく名前を残しているのは2回あり、一つはこの組頭として維新の動乱の佐渡に戦乱がおよばぬように守り抜いた話。もう一つは維新後に就任した茨城県令の時代、那珂郡で起きた大規模な地租改正一揆に対して鎮圧を試み、囚人部隊を送り込んで首謀者を討ったという話。

2018-06-20 21:22:15
銅折葉 @domioriha

後者の話は那珂郡暴動として伝わり、一揆を起こした側の立場からは卑劣にも重犯罪者を用いた暗殺者を送り込んで指導者を殺害させた言語道断の行いという批判をされているのだが、一方で一揆を起こした側も警官を襲って何人も殺害していたり、囚人部隊と言っても牢名主の模範囚であったという面もある。

2018-06-20 21:24:19
銅折葉 @domioriha

中山はこの那珂郡暴動(明治9年、1876年)の顛末で責任を取って辞職し(翌明治10年、1877年)、そのあと一度は長野県の書記官に復帰するが(明治13年、1880年)、1年ほどで自分から退官し、以後は亡くなるまで歴史に名前は出てこない。没年は1900年(明治33年)。

2018-06-20 21:28:04
銅折葉 @domioriha

で、問題は中山の前半生、佐渡組頭になるまでの話。まず生国がはっきりしない。いくつかの資料では駿河浜松藩出身となっているのだが、越佐人物誌などでは武蔵国出身となっている。父もある資料では川崎平五郎となっているが、別の資料では中山信民というのをみつけた。

2018-06-20 21:30:06
銅折葉 @domioriha

佐渡相川郷土史事典などによると、 文久二年(1862)浪士隊・新徴組取締 元治元年(1864)富士見御宝蔵番 同年(1864)7月22日に佐渡奉行支配組頭に任ぜられ来島となっている。

2018-06-20 21:32:25
銅折葉 @domioriha

このほかに。神奈川奉行所定番役や鉱山取締も務めたという話があった。 時系列をみると、文久3年(1863年)1月に結成された浪士組が上京し、ここで分裂して(新撰組の近藤、土方らを京都に残して)帰還、4月に清河八郎が暗殺されてから浪士組は新徴組に改められた。この支配定役に中山の名前がある。

2018-06-20 21:37:57
銅折葉 @domioriha

一方で、神奈川奉行は1860年に専任になり、ここから一気に千人近い大規模な定番役(正式な採用と言うよりは臨時職員みたいな立場の役職)増員をしているので、この中に中山が採用されていたのではないかと思われる。

2018-06-20 21:39:31
銅折葉 @domioriha

新徴組の関連だと、清河八郎を暗殺したのは佐々木只三郎・窪田泉太郎ら6名とされる。この中に「中山周助(資料によっては修助)」という名前が含まれる資料がある。佐渡政党史稿ではこれが中山信安かという問い合わせをし、はっきりしないがそうではないかという回答があったことを載せている。

2018-06-20 21:42:06
銅折葉 @domioriha

清河八郎については日記研究などが進み、暗殺後に行われた処理の記録などもあるのだが、こちらの記録には中山の名前は出てこない。 ただ、後の明治16年に剣槍柔術永続社という日本武術を振興する結社が興され(発起人は鷲尾隆聚、山岡鉄舟)、この副社長に中山の名前がある。

2018-06-20 21:47:01
銅折葉 @domioriha

先にあげた富士見御蔵番というのは江戸城の宝物庫を警備する役目であって、これがもし建前上形骸化していた可能性を考慮しても、中山がまったく武術や剣術の心得がなかったというのは少し考えにくいというのが個人的な印象である。

2018-06-20 21:49:26
銅折葉 @domioriha

中山の生国だが、浜松市の図書館などで浜松藩の分限帳や小姓名簿などを調べた限りでは、そもそも中山という名前がほぼ見当たらなかった。個別に調べてみたが中山信民も川崎平五郎もいまいちどういう人か良く分からない。(後者は史跡に関する議事録が出てくるが

2018-06-20 21:52:13
銅折葉 @domioriha

推測だが、浜松藩が本籍地だが生まれたのは武蔵国というケースではないかと思われる。関係があるかははっきりしないが、中山伊■郎という人(信安の15歳くらい上)が同じく駿河の出身で神奈川奉行に勤めているので、もしかしたら親戚とかかもしれない。

2018-06-20 21:54:29
銅折葉 @domioriha

で、恩師先輩訓話随録という、小田原藩士慶應義塾生の岡本貞烋が福沢諭吉の言葉をまとめた本があって、この中に新徴組時代の中山の話がある。このエピソード、横浜で商売をやっていた堀越角次郎という商人のところに、外国人相手の商売など日本の資産を流出させる気かと中山がやってきて、(続

2018-06-20 21:57:16
銅折葉 @domioriha

逆に角次郎氏から国家経済の理を説かれて感服し、後に福沢諭吉とも合って話をして見聞を広げ、洋学について知ることは大切だと気づかされた、という話になっている。

2018-06-20 22:01:32
銅折葉 @domioriha

ただ、この話で中山は新徴組の隊長だったことになっているのだが、中山はそれ以前に緒方洪庵に師事しているはずなので、蘭学についてはすでに身につけていたのではないかと思われる節もある。

2018-06-20 22:03:52
銅折葉 @domioriha

大阪で敵塾を開いていた緒方洪庵が奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕したのが1862年で、突如喀血して没したのが1863年7月。新徴組の結成は先述した通り1863年4月。かなりめまぐるしいスケジュールでいちおう辻褄が合わないわけではないが、ややこしい。

2018-06-20 22:05:07
銅折葉 @domioriha

ちなみに信安の妻である中山幸子女史も幕末には江戸から信安に情報を送ったり、女性の教育に尽力し、、また牛乳の普及に努めたりといくつ者業績を残したことで知られている。

2018-06-20 22:07:32
銅折葉 @domioriha

幸子女史は薩摩の出身という文献が多いのだが(幕臣が新政府側の薩摩の妻を持っているのは具合が悪いと考え離縁を考えたが、幸子は絶食をしてこれに講義し、幕府もその決意を認可したというエピソードが由来か)、これはおそらく誤りで、もともと丹後国(京都)宮津の出身であると思われる。

2018-06-20 22:09:50
銅折葉 @domioriha

おそらくこれは幸子の兄である嵯峨音良吉(坂本龍馬の船中八策に先駆けて七条からなる「時勢改正」を提出したことで有名)が、軍艦で薩摩を訪れその縁で薩摩藩士となったことあたりからの誤解ではないかと推測されます。

2018-06-20 22:14:10
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