中山信安(修輔)の話。

幕末の佐渡奉行組頭をつとめ、佐渡に戦火が及ばぬよう奔走した中山信安(後に新治県令、茨城県令)の生涯に関して調べたことなどのまとめです。
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銅折葉 @domioriha

那珂郡暴動におけるいわゆる「囚人抜刀隊」で解放された模範囚たちが暴動の首謀者を殺害した件に関して、その功績を元に罪を減じた司法省の記録。 『司法省指令録』(二). (参照 2024-02-01) dl.ndl.go.jp/pid/1366616/1/… #国立国会図書館デジタルコレクション

2024-02-01 22:28:38
銅折葉 @domioriha

当時の風文を語る書なんかだと、彼ら模範囚は逃げ出して戻ってこなかったとか、戻ってきたが依頼した張本人の権令中山信安が辞職していたため罪を減じて貰えず骨折り損だったとか書いてあるのだが、ちゃんと県庁まで戻ってきて報告しているのだ。

2024-02-01 22:30:02
銅折葉 @domioriha

中には解き放たれた囚人は数百名にも及びそれで民間人に大きな被害が出たみたいなことを面白おかしく書き立てている本もあるのだが、この通り対象者は6名で、それぞれの罪状や状況についても、司法省に問い合わせた上での対応だったことがわかる。

2024-02-01 22:31:47
銅折葉 @domioriha

小学訓話資料の編者のあとがきなどをいまさら確認したが、秩父史誌などの編纂に携わった神職の塩谷俊太郎によるものであった。宝登山神社宮司などを務めた人物。 塩谷俊太郎 著『小学訓話資料』,塩谷俊太郎,大正14.(参照 2024-02-06) dl.ndl.go.jp/pid/918164/1/1… #国立国会図書館デジタルコレクション

2024-02-06 20:43:12
銅折葉 @domioriha

あとがきによれば、明治40年の頃に大久保利武が埼玉県の知事になったとき、郷土の偉人を調べて展覧会を開くことになり、その時に集めた資料が20年を経て大正14年に出たこの本の元になっているというようなことが書いてある。

2024-02-06 20:45:38
銅折葉 @domioriha

とするなら、中山信安が茨城権令だった明治10年からは30年ばかり後年ということになり、明治33年まで存命だった信安のことを考えると、医師新井良輔の家の出だったという情報を直接見知っている世代が存命の頃に集められた資料が基になると推測できる。

2024-02-06 20:47:11
銅折葉 @domioriha

新井重右衛門の後裔である当代として新井東吾について言及があるわけだから、山戸泰助文書の新井フミ氏あたりから直接情報を調べた可能性があるのだな。

2024-02-06 20:48:33
安里 @anri_toho

@domioriha 突然すみません、以前ツイートしていた中山信安がお兄さんに宛てたと見られる手紙を、個人的興味で読解を続けていました。 全て読解できたわけではないのですが、大体のことがわかりましたのでご参考程度にどうぞ pic.twitter.com/qnxjfbq8LM

2024-02-16 16:31:08
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安里 @anri_toho

大体わかったこと ・日付の「正月四日」、文末の「永陽の日 恐惶謹言」が年始の挨拶の定型分であることから、これは年賀状である ・中盤の内容:旧年信安が体調を崩した時に別当さん(杉上?)にご馳走してもらったことを大変感謝して、年末に娘を遣いに出し礼をしている。祝詞をあげに初詣も行きたい。

2024-02-16 16:36:20
安里 @anri_toho

参考:明治時代の年賀状 komonjo.rokumeibunko.com/koza/syotoku/v… 江戸時代の年賀状 pref.gunma.jp/uploaded/attac… 素人の読解ですので間違いもあるかとおもいますが、なにかの参考になれば

2024-02-16 16:52:04
銅折葉 @domioriha

まえにTwitterでこれ読める人いませんか?でお願いした中山信安から兄に宛てた書簡を安里さんに読んでもらったのだが、あの画像は書簡の範囲全部じゃなかったのをいまさら思い出してちょっと申し訳ないことをしたなと反省している。 archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilc…

2024-02-17 22:40:06
銅折葉 @domioriha

で、気になるのが信安がどうも娘を遣いに出すよと言うようなことを手紙の中に書いているようなんだが、記録の中にある限りでは信安には娘はいなかったはずなんだな……というよりおそらく実子がいない。

2024-02-17 22:41:19
銅折葉 @domioriha

中山信安と幸子夫妻には、明確に記録があるものと伝聞の域を出ないものを含めて、4人ほど養子がいる。 ・信安の義兄(幸子の兄)である嵯峨根良吉の息子、鹿之助(墓誌によれば5歳で夭折)。 ・水戸天狗党の山田一郎から後事を託されたという川野健之助(河野信義)。

2024-02-17 22:45:27
銅折葉 @domioriha

・新治権令時に小学校を視察したとき、成績優秀であるために養子とした曽我秀三郎(後、尺振八の跡を継いで尺秀三郎となる) ・信安の死後、幸子が養子に取った嵯峨根不二郎(嵯峨根良吉の子)の息子の中山信重。

2024-02-17 22:46:44
銅折葉 @domioriha

このほかに、嵯峨根良吉の息子である嵯峨根不二郎とその妻の千代も引き取り、ほぼ養子同然のような扱いをしているとは思われるが、不二郎も若くして亡くなっているし、河野信義はほとんど系譜が分からないがおそらく水戸裁判所に勤めて独立している。

2024-02-17 22:48:43
銅折葉 @domioriha

信安が「娘」として呼べるような立場の人物がいないように思われるんだな……。幸子の存命中に中山信重は没し、さらに塩田広重の子を中山光重として信重の養子としているが、信重・光重の後見人として公文書に嵯峨根千代の名前が見えるので、この嵯峨根千代が「娘」と扱われていた可能性はあるが。

2024-02-17 22:53:18
銅折葉 @domioriha

はっきりしたところは分からないが、写真を見る限りどうも信安は足が不自由だったようで、そして何人も養子を取っているところをみると実子には恵まれなかった可能性がある。いやこのへんはまったく分からないんだけど。

2024-02-17 22:56:21
銅折葉 @domioriha

信安の養子、色々ワケありのパターンが多く、「後事を託された」ような養子は跡継ぎにするわけにはいかなかったとしても。 仮に信安に実の娘がいた場合、誰かしら婿養子を迎えて家を継がせる算段はもっと早い時期にしていておかしくないと思うんだよね。せめて茨城権令をやめた後のあたりに。

2024-02-17 22:58:53
銅折葉 @domioriha

ドイツに留学していた曽我秀三郎が、信安に出した手紙の中で嵯峨根不二郎を「不二郎兄」と呼んでいたり、不二郎の突然の訃報に際して兄として呼んでいるのが明瞭であるので、義兄である嵯峨根良吉の跡取りとして尊重はしていても、扱いは息子のようなものだったと思う。 twitter.com/domioriha/stat…

2024-02-17 23:01:24
銅折葉@5/3(金)例大祭し43b @domioriha

浦出さんから情報をいただいたので確認してみたわけだけれども、この奥野信太郎が世話になったという左衛門町の叔母、間違いなく嵯峨根千代だ。 奥野信太郎 著『はるかな女たち』,講談社,1959. dl.ndl.go.jp/pid/1669627/1/… #国立国会図書館デジタルコレクション

2024-04-25 22:40:40
銅折葉@5/3(金)例大祭し43b @domioriha

というかこの奥野信太郎の年譜にそのまま、明治45年の13歳から嵯峨根千代のところに住んだことが書かれている。「はるかな女たち」ではイニシャル表記の人物の名前もある。 『現代知性全集』第7 (奥野信太郎集),日本書房,1958. dl.ndl.go.jp/pid/2966226/1/… #国立国会図書館デジタルコレクション

2024-04-25 22:43:11
銅折葉@5/3(金)例大祭し43b @domioriha

「はるかな女たち」では叔母のしゅうとに当たる人物が新治権令であったということや、しゅうととしゅうとめが亡くなったこと、叔母が未亡人になったこと、そのため奥野信太郎のいとこが左衛門町を相続したがやっぱり若くして腸チフスで亡くなったことが書かれているが、叔母が嵯峨根千代であるので(続

2024-04-25 22:45:22
銅折葉@5/3(金)例大祭し43b @domioriha

しゅうとが中山信安、しゅうとめがその妻中山幸子。信太郎の叔母である嵯峨根千代が亡くしたのが嵯峨根不二郎(幸子の兄の嵯峨根良吉の子)、いとこというのが不二郎と千代の息子である中山信重(信安没後に幸子の養子となった)であることが、各種エピソードとともに全て符合します。

2024-04-25 22:47:37
銅折葉@5/3(金)例大祭し43b @domioriha

ということは、嵯峨根千代にとって信安・幸子夫妻はしゅうと・しゅうとめという位置づけであったことがわかり(当の嵯峨根千代と奥野信太郎は一緒に暮らしていたので、ここの認識は共通のものであったはず)、信安が嵯峨根千代を娘(息子の嫁?)同然として扱っていたことが想像できます。

2024-04-25 22:49:31
銅折葉@5/3(金)例大祭し43b @domioriha

「はるかな女たち」では後に嵯峨根千代が(ここでは「伯母」表記)谷中の笠森稲荷へ移り住み、そこに信太郎が再び世話になったことが書かれているのだが。 奥野信太郎 著『はるかな女たち』,講談社,1959. dl.ndl.go.jp/pid/1669627/1/… #国立国会図書館デジタルコレクション

2024-04-25 22:52:15
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