眼がスクリーンになるとき 福尾匠

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福尾匠 @tweetingtakumi

書影&「はじめに」全文公開! 組版を含む全体のブックデザインは熊谷篤史さん、カバーの挿画は五月女哲平さん、そして帯文は千葉雅也さんによるものです。贅沢!! 発売まであと2週間。アマゾンでの予約も受付中です! kaminotane.com/2018/07/12/316… pic.twitter.com/rZjhDQVK4Q

2018-07-12 15:10:53
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未発育都市 @mihatsuikutoshi

福尾匠著『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』 amazon.co.jp/dp/4845917041 2018/7/26発売。メモ_φ(・_・

2018-07-13 11:03:28
GMBO2008 @GMBO2008

帰りに寄った本屋さんにあったんでつい手に取ってしまった 読むんだろうか 装幀が良いから、とりあえず置いておくだけでもいいか、などと #眼がスクリーンになるとき #福尾匠 pic.twitter.com/jLRG1wwKdV

2018-07-26 22:44:39
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GMBO2008 @GMBO2008

奥付を見ると著者は1992年生まれ えっ、26歳? 今日は頭が働いてないなと思いながら、何度計算しても26歳だった

2018-07-26 22:44:40
フィルムアート社(創立55周年!) @filmartsha

【記事公開!】ドゥルーズについての著作を多数執筆されている小泉義之さんによる『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(福尾匠=著)の書評が公開になりました。とても読み応えがある内容になっています👉 kaminotane.com/2018/11/02/365…

2018-11-02 19:10:26
GMBO2008 @GMBO2008

そこで分割可能なのは線であって運動ではなかった。つまり、線という、手の運動を空間に翻訳したものは分割できるが、運動自体を分割することはできない。 「眼がスクリーンになるとき」 福尾匠

2018-12-18 22:34:01
GMBO2008 @GMBO2008

瞬間の連続として時間をとらえる考え方は、実のところ、時間を直接考えているのではなく時間を空間化したうえで考えているだけだということになる。運動を分割できると考えるのは錯覚なのだ。 「眼がスクリーンになるとき」 福尾匠

2018-12-18 22:34:03
GMBO2008 @GMBO2008

興味深いことにベルクソンは、この錯覚に「思考の映画的メカニズム」という名前を与えている。 「眼がスクリーンになるとき」 福尾匠

2018-12-18 22:34:04
GMBO2008 @GMBO2008

それゆえ映画において、全体はイメージを内部化し、イメージにおいてみずからを外部化し、この二重の引力によってたえずつくられる。これはつねに全体化のプロセスであり、これがモンタージュあるいは思考の力能を定義していたのだ。 「シネマ」 ドゥルーズ #眼がスクリーンになるとき

2019-03-02 18:32:26
GMBO2008 @GMBO2008

今、ここにいる彼女は、10年前、15年前、20年前の彼女とは随分違った存在なのだが、過去の彼女のイメージと分かち難く結びついている もちろんこれまでのすべての彼女のイメージを記憶などできるはずはなく、断片的な、だが印象深いイメージのつぎはぎだ

2019-03-02 23:26:07
GMBO2008 @GMBO2008

私にとっての彼女の全体とはそのようなものとしてある

2019-03-02 23:26:08
GMBO2008 @GMBO2008

不純物としての情動のない純粋な知覚を、ベルクソンは「権利上」存在するものであり、事実においてそのような知覚を見出すことはできないとしている。なぜなら事実においてわれわれの知覚はつねに、第一に情動と、第二に記憶と混ざりあっているからだ。 「眼がスクリーンになるとき」 福尾匠

2019-03-02 23:42:17
GMBO2008 @GMBO2008

したがってこの「不純」な、経験的な知覚は「一定の持続を占める」と同時に、その拠点としての身体の現存を前提とする。反対に純粋知覚は、身体という拠点も持続の厚みも欠いた知覚であり「物質にかんする直接的で瞬間的なヴィジョン」であると言われる。 「眼がスクリーンになるとき」 福尾匠

2019-03-02 23:42:18
GMBO2008 @GMBO2008

知覚と記憶の同時性、これが『シネマ』においては「時間の結晶」と呼ばれる。重要なのは、デジャヴュという言わば特殊な現象によって露わになるこの時間性こそが時間の基礎であるということだ。 「眼がスクリーンになるとき」 福尾匠

2019-05-04 23:45:27
GMBO2008 @GMBO2008

「結晶が示すもの、あるいは見せるものは、時間の隠された基礎、つまり移行する現在と保存される過去というふたつの噴射への時間の文化である。 「シネマ」 ジル・ドゥルーズ

2019-05-04 23:45:27
GMBO2008 @GMBO2008

つまり知覚と記憶の同時性、その現象的なイメージと「それ自身の」潜在的なイメージとの対応は、われわれの「正常な」時間認識からのたんなる逸脱ではなく、むしろわれわれの日常的な認識の本質を覆い隠すものであるのだ。 「眼がスクリーンになるとき」 福尾匠

2019-05-04 23:45:28
GMBO2008 @GMBO2008

知覚される表象は脳の内部にあるのではなく、物質はそれ自体のうちに知覚が潜在的に認められているのであり、 「眼がスクリーンになるとき」 福尾匠

2019-05-05 00:03:16
GMBO2008 @GMBO2008

それが主観化=中心化されるのは、脳を走り抜ける振動が別のものに翻訳される、あるいは蜃気楼のような表象を発生させたからではなく、たんに対象に与える作用から一定のものが「引き算」されるからだ。 「眼がスクリーンになるとき」 福尾匠

2019-05-05 00:03:17
GMBO2008 @GMBO2008

そしてこの引き算が、感覚ー運動系あるいは不確定性の中心としての身体を構成するのであった。引き算による感覚ー運動系の構成、それによるイメージの中心化。(中略)何が引き算を可能にするのかという点については不問に付していた。記憶こそがその機能を担う。 「眼がスクリーンになるとき」 福尾匠

2019-05-05 00:03:17
GMBO2008 @GMBO2008

ひとそろいの出来事からなる生を、エピソードを、世界を、「唯一のおなじ出来事としてあつかう可能性」が、そのなかの両立不可能な現在の同時性を基礎づける。宇宙とはこの可能性の別名であるだろう。 「眼がスクリーンになるとき」 福尾匠

2019-05-12 14:19:19
GMBO2008 @GMBO2008

ドゥルーズにおいて「多元的な宇宙論」は、けっして宇宙の多数性を意味するのではなく、むしろ世界の多数性が宇宙へとなし崩し的に跳ね返るのを阻止するとともに、〈レフェリー〉を立てることで世界の複数性が〈継起〉へと折り広げられるのを阻止する「可能性」を意味する。 #眼がスクリーンになるとき

2019-05-12 14:19:20
GMBO2008 @GMBO2008

「時間イメージ」について考えようとするときに、一遍聖絵という名の絵巻物を見た際に感じたことなどを手掛かりにしてみても良いのかもしれないと思った twitter.com/gmbo2008/statu… twitter.com/gmbo2008/statu… twitter.com/gmbo2008/statu… #眼がスクリーンになるとき #一遍聖絵

2019-05-12 14:21:34
GMBO2008 @GMBO2008

一巻から十二巻まで三巡して、臨終の場面が心に染みる ひとりの人間の総体を理解させられるということだろうか そして、その後の侍従僧の入水に共感に近い何かを感じた この場面は前期は模本の展示 真本の展示される後期にもう一度見に行く #一遍聖絵

2019-04-22 23:16:11
GMBO2008 @GMBO2008

絵としてみれば七巻がハイライトなのだろう この巻だけ東京国立博物館蔵となった由来もそこにあるのかも知れない でも、これはやはり全巻通して見るべきものと感じた ひとりの非凡な宗教者のライフヒストリー そうすると例えば雨宿りをしている場面は描かれなければならなかったことが分かってくる

2019-04-23 23:59:26
GMBO2008 @GMBO2008

時間軸を含む4次元空間という概念の良いところは、記録されないもの、記憶に残らないものが消えてしまうわけではないということ

2019-03-16 19:29:12
GMBO2008 @GMBO2008

そこには音声が無いと指摘されるかも知れないが、かつては傍らに琵琶法師のような語り手がいたと考えてもいいし.見るものが自ずと口に出す言葉もあるだろう その前にそこには「念仏」がある #一遍聖絵

2019-05-12 14:21:34