偽書『武功夜話』について

14
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

元々織田家の先祖を調べていた人間としては、『武功夜話』というのは非常に面白い偽書でして… 各々の逸話の書く際、何の史料を引用したのかを中心に調べると、見えてきた作者の知識が相当いびつである事が判り、引用史料も超時代的でとても一つの時代の人間だけで書ける代物ではない事が判ります。 pic.twitter.com/ZPYit08ZRk

2018-08-03 11:21:14
拡大
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

近年は『武功夜話』についての真贋の論議が沈静化した。 まぁ今さら真贋は問うまでもないのだが、「なぜ偽作なのか?」の研究は新たな角度からのアプローチもなく、10数年前から止まっているように見える。 「推定有罪」に対して追及しない風潮は『甫庵信長記』にも通じる。 twitter.com/RigenInotch/st…

2018-08-03 20:25:41
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

今夜は私なりの見解で『武功夜話』のおかしい点について、少し触れてみたいと思う。 私自身の10年ほど前の考察なので、甘い点は処々あるかもしれないが、願わくば適正なる叱咤ご鞭撻と共にご笑納頂きたい。

2018-08-03 20:28:44
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

何しろ全文が「門外不出」という理由で公開されていないので、先にも書いたように「織田家の先祖の認識」というアプローチで、刊行本のおかしい点について考えてみたい。

2018-08-03 20:36:47
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

まず私が気になった点は、織田敏定の通称について。 寛永諸家系図伝 三郎 諸家系図纂   伊勢守 総見記     三郎・大和守 改選諸家系譜  三郎・伊勢守 寛政重修諸家譜 三郎・伊勢守・大和守 系図纂要    三郎・伊勢守 続群書類従   三郎・伊勢守 武功夜話    治郎左衛門

2018-08-03 20:48:58
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

実はこの『武功夜話』の「治郎左衛門」という通称。故なき通称ではない。 『文正記』という史料で文正元年(1466)7月中旬の戦で活躍している「織田次郎左衛門敏貞」という人物を敏定に見立てて作られたと思われるのだ。 ただし、以下の理由でこの次郎左衛門敏貞は敏定ではないと推測できる。

2018-08-03 20:56:55
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

実は文明十四年(1482)の「清洲宗論」の際、奉行・判者を務めた子と思われる織田次郎左衛門広貞という人物がいる。 16年を経て同じ「次郎左衛門」という通称と「○貞」という諱の形を見るに、この2人は親子かそれに準ずる家族構成だったと見られる点で、「敏貞=敏定」と見るには無理があるのだ。

2018-08-03 21:06:07
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

補足として、「文正記」内で次郎左衛門敏貞は「小臣身」という表現で語られているが、織田大和守家の当主である敏定はどう考えても「小臣身」ではない。 では何故『武功夜話』では、織田敏定を「治郎左衛門」という通称にしたか?

2018-08-03 21:11:40
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

ここからは推論。 おそらく武功夜話で織田敏定の記事を書いた時代には、敏定の通称には複数説があり、どの説も主流たり得なかった為、困って第三の通称で誤魔化したのではないかと考えられるのだ。 実際、敏定の本当の通称は「五郎・大和守」であり、どれも間違っている。 twitter.com/RigenInotch/st…

2018-08-03 21:17:35
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

さて、次は敏定の子織田敏信について。 寛永諸家系図伝 右馬助 諸家系図纂   左馬助・伊勢守 総見記     左馬助・大和守 改選諸家系譜  左馬介・大和守 寛政重修諸家譜 右馬助・伊勢守・大和守 系図纂要    右馬助 続群書類従   左馬助・伊勢守 武功夜話    左馬助・伊勢守

2018-08-03 21:26:53
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

実は江戸期の織田家系図は、大きく分けて二種類ある。 ここでは全て掲載しないが、この後の系図はこの二種類の亜流である。 そしてこの二種類では、織田敏信がそれぞれ「右馬助」「左馬助」と別れている為、私はこれらを「右馬助系図」「左馬助系図」と呼称している。 入れ替わっているものもあるが… pic.twitter.com/XhzUptr5WK

2018-08-03 21:40:00
拡大
拡大
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

そして問題の『武功夜話』の織田系図。 説明にも書いてあるが、まず各々の先祖が常松・常竹としている点があまりに異色。織田家の先祖が平氏直系ではなく、常松・常竹に通じると言い始めたのは大正九年の田中義成が初めてである。 pic.twitter.com/HEKcS40HfJ

2018-08-03 21:46:55
拡大
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

『武功夜話』では、敏信が船田合戦で戦死している。 実際に戦死したのは敏定の嫡男寬定である。 『武功夜話』は、岩倉の織田伊勢守家や犬山織田家贔屓の表現が多い為か、岩倉織田伊勢守家の祖敏信を敏定の嫡男に見立てる工夫が成されている。

2018-08-03 22:03:11
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

織田寬定の戦死なぞは『船田前後記』や『大乗院寺社雑事記』くらいにしか書かれていない。これは何を意味するのかというと… 【『武功夜話』の作者は、15世紀の織田家関連の史料にとても精通している】という事である。

2018-08-03 22:14:28
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

さて、武功夜話(以後『夜話』)の第2夜。 現代で信長一代記の史料というと、まず思い浮かぶのは太田牛一の『信長公記』だが、江戸期においては一般的に『甫庵信長記』(以後『信長記』)の方が広く読まれていた。 『夜話』も御多分にもれず、『信長記』と遠山信春の『総見記』の影響を強く受けている。

2018-08-05 00:38:12
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

まず小豆坂の合戦について。 『夜話』では小豆坂の合戦を「天文壬寅」(1542)の事としており、さらには天文十七年説に触れていない。すなわち小豆坂の合戦を1回のみとしているのだ。 小豆坂の合戦の天文十一年1回説を採用しているのは『信長記』のみで、『総見記』は、天文十七年1回説を採っている。

2018-08-05 00:39:22
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

ちなみに『夜話』の小豆坂の合戦の記述に「花鑓」という言葉が出てくるが、これは一番槍という意味らしく、『甫庵太閤記』以外では見られない単語(最初鑓:ハナヤリ)である。 戦国期の感状等では確認できず、フォロワーの高村不期さんにも検索していただいたが、やはりみつけられなかったとの事。

2018-08-05 00:40:07
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

『夜話』の信長の岩倉攻めにおいて、『前田左馬助奮戦の事』という一項が設けられていて、前田利家の兄左馬助という岩倉方の武将の奮戦が書かれている。 これは『甫庵信長記』にも『総見記』にもある記事だが、この武将が前田利家の兄としているのは『総見記』のみである。

2018-08-05 00:40:39
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

信長による美濃攻略は今では永禄十年説が通説となっているが、実は明治42年頃までは永禄七年説が主流であった。 江戸期で永禄十年説を採用しているのは、『甫庵太閤記』程度で『信長記』すら永禄七年説で、甲陽軍鑑が「(信長)三十三歳の時」と書いている程度。 そんな中『夜話』は永禄十年説を採用。

2018-08-05 00:45:44
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

後は…『夜話』では三方ヶ原の戦いの織田家の援軍に滝川一益を入れているが、滝川が三方ヶ原の戦いに加わったとされるのは、『明智軍記』(元禄初年頃)と『四戦紀聞』(1705頃)程度。

2018-08-05 00:50:21
谷津 珠葉(李厳命) @Rigenmei

織田敏信を左馬助にしたり常寬を御台殿としたり、織田久長を三郎と呼んだりするのは、幕末の『系図纂要』しかない。 『夜話』の作者は15世紀の織田家の動向はしっかり押さえている割に、織田敏定の通称は正しくないし、16世紀以降の認識は稚拙極まりない。 私にはこれが一人の著述とは思えないのだ。

2018-08-05 01:00:57