8/26 平山優先生『武田信玄を支えた武士団』を拝聴しての気づき。

0
日光81 @nikko81_fsi

さて、遅くなりました(なりすぎ)ですが、8/26の「武田信玄を支えた武士団」を反芻。改めてメモとレジュメを見返すと家中における一門・譜代・先方衆たる降伏国衆との関係よりも、その関係と拠点城郭との関連に興味があるなと。近刊の内容が非常に待ち遠しい。

2018-09-09 15:41:14
日光81 @nikko81_fsi

ピンポイントだけど、気になったことまとめ。順不同。①伊那について上伊那は、勝頼に高遠諏訪家を継がせ、比較的広域にまとまった国衆領として復活。下伊那は国衆領が入り組むが、防衛拠点の大島城が入り組んだ国衆領のど真ん中に位置し、城郭を運営維持するための領地がない。

2018-09-09 15:43:02
日光81 @nikko81_fsi

周辺国衆が普請を担当しつつ、戦のときは大島城に在番。上伊那と下伊那の縄張りの違いとの関係。大島城他は丸馬出の発達した城がある一方、上伊那の高遠城には現存遺構を見る限り、天正7年以降くらいの時期と思しき丸馬出遺構はなさげ。御館の乱終結以降の領国防衛の際に縄張り整備に違いが出た?

2018-09-09 15:45:14
日光81 @nikko81_fsi

②征服地と本国甲斐と比べると、甲斐の方が税が重い。制圧国衆領から直接被官を求める人材が増加。直轄軍事力の増に寄与するものの、国衆領の維持安定のため、ある時期から直談判を禁じる。国衆から(国衆当主承認の下)申請させる方式に。国衆領をうまく生かす重要性。

2018-09-09 15:47:32
日光81 @nikko81_fsi

③当主と国衆との関係が、服属前段階から武田分国への包摂、平時の連絡体制と戦時体制と、それぞれ名前(役目)が変わっても人脈が固定するということ。小取次/取次、小指南/指南、寄親/寄子。龍朱印の奉書式朱印状の出現で、指南をパスして小指南から直接国衆当主へ伝達されるパターンが成立。

2018-09-09 15:49:41
日光81 @nikko81_fsi

これ、信玄・勝頼に近い側近側が「小」と呼ばれるのがちょっと不思議だった。一方で相備の関係になるときは、信玄・勝頼から直接指揮を受ける重臣層が寄親で、重臣層の指揮下に入る相備の国衆らは寄子、なんだよねぇ。

2018-09-09 15:51:54
日光81 @nikko81_fsi

小取次・小指南たちの権力バランス。香坂、内藤、原、山県ら初期の側近らは、各地に転出し徴税・警察・軍事などを包括する郡司として、分国内に散らばり、次の世代の「小取次」「小指南」が必要…だが、ここのバランスが崩れた?跡部勝資が妬まれる要因が小取次としての立場が彼に偏ることが要因か。

2018-09-09 15:58:03
日光81 @nikko81_fsi

原昌胤は長篠で討死、その後に土屋昌恒。土屋は駿河・遠州を担当、他は跡部。江戸時代の側用人もそうだが、君主の権力の傘で権力を持ちやすい側近としての職務が特定の人間に集中してしまった。本来は奥近習六人衆といわれた世代で分担して、次の世代の小取次にしておくべきだったんだな。

2018-09-09 16:02:48
日光81 @nikko81_fsi

その意味では土屋昌継はまだ弟の昌恒がその立場を継承できているけど、他は全くその立場にはなれていない。三枝昌貞は土屋昌継と同じく長篠で戦死しているが、後継者が見当たらない。ちょっとビミョウな甘利信忠は早世、長坂昌国は義信事件のゴタゴタで…

2018-09-09 16:07:22
日光81 @nikko81_fsi

曾根昌世は郡代として出ちゃうし、武藤昌幸は長篠で討死した信綱の後を継いで真田に復するし。小取次という立場はクレバーかつ信頼が置ける人材でないといけないだろうから、長篠で重臣層を失ったことにより、間接的に小取次という立場を冗長化させるだけの人材の余裕をなくしてしまったのかも。

2018-09-09 16:14:19
日光81 @nikko81_fsi

曾根昌世はイマイチどの程度有能だったかあまり知らないのだけど、少なくとも長篠で真田信綱が討死せず、武藤昌幸が順調に取次ぐ立場として土屋と跡部と分担できていれば、勝頼もラクだったろうに。それでも与右衛門ではない即戦力の人材に真田を継がせてでも真田を潰せなかったのは厳しい選択。

2018-09-09 16:18:15
日光81 @nikko81_fsi

昌幸が真田に戻っても、信尹がいるじゃん!って話なんだけど、信尹が加津野家に入嗣したのは長篠後。以前から信尹嫡子を加津野家に入れる約束はあったようだけど、名代として信尹も加津野家へ。信尹を長篠直後に奉者になり得る立場に持ってくる選択肢はなかったのかなぁ。とかとか想像が広がる。

2018-09-09 16:26:28
日光81 @nikko81_fsi

④拠点城郭と丸馬出の関係。初期に制圧した地域(諏訪、佐久、伊那)あたりには、天文期から丸馬出があったと思われる城がなさげ。(内山城、上原城、高島城)深志城は不明、大島城はあっても小規模丸馬出か?

2018-09-09 16:29:17
日光81 @nikko81_fsi

駿河の例では江尻、興国寺、深沢、沼津三枚橋あたりは丸馬出有。新築だが久能城は山城で丸馬出なし。久能城は山城で拠点城郭としては佐久内山城と似た印象があるのだけど(内山城は新造じゃないと思うけど)台地上に拠点城郭を置きがちな武田にあって、山城に置くモチベーションはどこにあるのだろ。

2018-09-09 16:30:38
日光81 @nikko81_fsi

上野の拠点は岩櫃城・箕輪城で箕輪城は武田時代の縄張不明、岩櫃城は山城だし、必ずしも平地ばかりでもないんだよなぁ。城の選定ロジックが知りたいね。そんなんわからんだろうけど。

2018-09-09 16:32:19
日光81 @nikko81_fsi

⑤城についての小ネタ。天正八年五月、三枚橋(沼津)城の修築を真田昌幸他、山県昌満、小山田昌成、内藤昌月、春日信達が実行しているらしい。昌幸が新府城の普請奉行ではないとなってから、武田時代で昌幸と城との関わりは知らなかった。昌幸が武田の城づくりに触れる機会はあったということなんだ。

2018-09-09 16:38:49
日光81 @nikko81_fsi

甲陽軍鑑の記述で「藤枝とくのいっしきあけてのく、是は堅固の地なりとて馬場美濃守に仰せ付けられ、馬出しをとらせ、田中城と名付く、暫く番手持ち也」とあるらしい。藤枝で見た高山文書との関連で非常に気になる記述。文書でも「とくのいっしき」という城名が確認できる文書のようですが。

2018-09-09 16:41:10
日光81 @nikko81_fsi

徳一色城は特に堅固なので特に改修はいらないよ、と信玄公が指示している内容なんだけど、改修要らないんだからこの時に丸馬出造ってないのかなと思ってたんだけど、軍鑑としてはこのタイミングで丸馬出をつくったことになってるんだね。

2018-09-09 16:43:09
日光81 @nikko81_fsi

確かに古い田中城の図面ではある一方の丸馬出の形状が他とはちょっと違っていて、(togetter.com/li/1246747 参照)武田時代に丸馬出つくられていたらたぶんここだろうなーというところがあるので、軍鑑が違ってなければ武田時代にも丸馬出が十分あり得るってことになるかなぁ。

2018-09-09 16:44:58
日光81 @nikko81_fsi

最後に穴山梅雪関連。天正七年十一月から十二月に江尻城大改修しているらしい。大改修というからには江戸時代の図面に残る縄張はこの頃のものなんじゃないかな。廃城は穴山勝千代・松平信吉没後くらいでしょうか?

2018-09-09 16:53:44
日光81 @nikko81_fsi

天正七年十一月から十二月というのは、御館の乱後北条とも険悪になり、駿豆国境に城(=三枚橋城)なんか造りやがってコノヤロー!と勝頼が氏政から非難されてる頃。その流れで江尻城も大改修して徳川・北条の挟撃に耐えねば、というモチベーションだったのだろうか。

2018-09-09 16:56:27
日光81 @nikko81_fsi

この流れで行くと同じく駿河の丸子城の修築時期についても、同時期に駿河で城を新造、修築を行っていることからして、同時期か少し遅い位のタイミングではないかという気がしてきた。

2018-09-09 16:59:45
日光81 @nikko81_fsi

丸子城のあの横堀をぐるっと回す深さと執拗さは、かなりの切迫感を感じるもの。ただあくまで対徳川だから北条を敵に回してすぐに修築!ではないかもしれないけど、挟撃による危機感という文脈はあるんじゃないかな。

2018-09-09 17:00:12