1222-1224 2018お城エキスポ

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日光81 @nikko81_fsi

石垣山城と肥前名護屋城との類似については、これと豊臣期甲府古城(躑躅が崎館)とも含めて織豊期の城しての見方がいるなと思った。そしてそれを「歴史家と噺家の城歩き」を見てやっぱりね、と。視点としては必要な者だと思う。

2018-12-31 15:12:44
日光81 @nikko81_fsi

一族を拠点城郭に配する北条と一族を拠点に配せない武田。後年この考えを崩して穴山梅雪や武田信綱を配したが能力的にも気概的にも…というのはなんだか悲しく悔しい。仁科信盛あたりに十分な兵と城郭を与えればとかやっぱり思う。大島城うまく使いこなしてくれるんじゃないか、信盛。

2018-12-31 15:15:54
日光81 @nikko81_fsi

平野部を支配するがゆえに交通政策が難しい北条はどうしても守りに入りやすい…これに対し山岳地帯が多く防衛上の地の利に優れた武田は攻められることを想定するよりも外に侵掠する考え方になりやすい?ただ逆に経済力の面では優れていて、自国の生産>周辺国から略奪というバランスもあるのかなぁと。

2018-12-31 15:19:09
日光81 @nikko81_fsi

武田と北条の戦いの歴史と城について。丸馬出見ちゃうとすっかり忘れるけど、深沢城は北条氏の河東防衛の一環で築城されるんだね。同盟状態だったら城あるとおかしいものね。同盟関係と敵対関係の移り変わりと新しく築城、または破城される関係がおもしろい。

2018-12-31 15:39:26
日光81 @nikko81_fsi

よりこれが明確にわかりやすく出てくるのは勝頼期。御館の乱以降の三枚橋城ができていく過程を見ると、城ができる意味をまじまじと理解できる。このあたり「武田氏滅亡」でも学ぶところだけども、より城関連でコンパクトに。きっかけの北条方の流言。駿豆国境で噂を流して武田方を刺激したというが…

2018-12-31 15:43:25
日光81 @nikko81_fsi

氏政としては結果はどうあれ、景虎を見限ったようにとれる勝頼の行動は許しがたく、また勝頼も上杉家の家督問題という難題が立ちはだかるものの、三者(景勝・景虎・氏政)和睦させたかった。しかし、氏政としてはそんなことより、景虎を見限ったか救ったかが問題だったのかな。

2018-12-31 15:45:42
日光81 @nikko81_fsi

というのを背景に、この流言。内容は不明なのだけど、どうもこれを武田家中は北条許すまじとなったようなのだ。それから駿豆国境の城郭を修築・強化し、新たな城郭である三枚橋城を築城する。後年の政治的な背景による築城とは違い、戦国の築城の成り行きとしてすごくわかりやすい例だなと。

2018-12-31 15:48:50
日光81 @nikko81_fsi

お城とは関係ないけど、そこまで家中皆が怒り心頭になる北条の流言とはどんなものか。その背景には勝頼がなんとか上杉と北条をまとめ上げようとする意図と、氏政のまず北条方である景虎が大事というすれ違いがあるんだろうなぁ。

2018-12-31 15:51:31
日光81 @nikko81_fsi

結果的にここで北条を敵に回すことが滅亡への大きな要因になると思うのだけど、確か軍鑑でも景勝に味方し北条を敵に回したことを滅亡の要因と見なすような記述があった気がする。

2018-12-31 15:53:39
日光81 @nikko81_fsi

なんかこう大きな出来事の要因って、小さなすれ違いがどんどん膨らんで取り返しが付かなくなるんだなぁと思わざるを得ない、三枚橋城築城の話。

2018-12-31 15:56:04
日光81 @nikko81_fsi

もう一つは今注目の?名古屋城天守の話を三浦先生から。ちょっと知らなかったのが、宝暦修理の際の石垣(天守台)の話。石垣が崩れかかって、天守を解体せずに石垣修理したのは知ってるんだけど、相当程度天守台を積み直しているらしい。加藤清正がつくった天守台は1/4程度しか残ってないそう。

2018-12-31 15:58:32
日光81 @nikko81_fsi

どうも熊本城はじめとした清正が手がけてきた城の天守台とは異なり、熱田台地の先端で御深井丸側が地盤の悪い沼地だったことで、どうも清正流の天守台は十分な強度を持ち得ていなかったらしい。今再建論議で天守台をどう守るか?はこういった歴史も踏まえる必要がありそう。

2018-12-31 16:01:50
日光81 @nikko81_fsi

宝暦修理の際の石垣構築技術がどのくらいだったか?はわからないけど、得てして創建当時~江戸初期あたりの石垣が強くて、平和な時代になった後の修理の箇所ほど崩れやすいイメージがある。明治以降の修理だと尚更。

2018-12-31 16:03:38
日光81 @nikko81_fsi

そんな中で長く天守台を維持することを考えると、どういう天守台として再構築するかという点もよくよく吟味されるべきだなぁ、と。ここを飛ばして木造天守再建はちょっと厳しい。いくら木造天守が長持ちしても、地盤がよくない箇所にしっかり天守台が居座っててくれないと、天守ももたないよ。

2018-12-31 16:04:52
日光81 @nikko81_fsi

一方確かに耐用年限と耐震性の観点で天守がもはや耐えることが難しいのも事実。耐震工事やればいいでしょという人もいるだろうけど、つぎはぎの耐震工事でどこまで強度を維持できるか微妙だしまずは現天守の解体、そして天守台の検証と修繕するかを検討しそれまでは天守はなしとせざるを得ないのでは。

2018-12-31 16:08:05
日光81 @nikko81_fsi

天守。木造とコンクリの比較は1時間しか時間のないところでもどかしいが、もう少し物理学的・数学的な検証があるとよかったな。力のかかり具合は質量に比例すること、そして耐震性能は自重との関係で見る必要があるというのをグラフか何かで提示されるとよりわかりやすかったかな。

2018-12-31 16:11:33
日光81 @nikko81_fsi

木造とコンクリで質量差が3~5倍ある一方で、コンクリが木造と比べ3~5倍の力に耐えられる耐震性能はないということは、木造でもない鉄筋コンクリでもない、軽くて強い建材ないかしら。それがあるなら、構造的には史実に沿いつつも、木材よりも強く丈夫な天守ができるかも。そんな都合いい材ないか。

2018-12-31 16:14:26
日光81 @nikko81_fsi

本丸御殿。きらびやかな上洛殿とは異なり、表書院はどうやら清洲城の移築らしい。再利用することで権力の継承を見せる意味もある。透かし欄間折り上げ格天井を見せるためという意味もあるらしい。今度ちょっと注意してみておこう。

2018-12-31 16:21:33
日光81 @nikko81_fsi

黒木書院。「黒木」というのはマツの木でできていて、黒く柱を塗っていたことに起因。元々は家康が名古屋城完成までの仮御殿として住まう場所が残ったもの。なんだけど、この由来は活かされず、再建御殿では黒くは塗られていないらしい。

2018-12-31 16:23:21