大阪夏の陣、豊臣氏の滅亡

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真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

小松山。この山の正体は古代の古墳である。後藤基次ら2800の豊臣軍は間近に迫る先鋒大将水野勝成率いる34300の徳川軍を押さえ込むためにこの山に陣を置いた。濃霧が原因で他の豊臣軍は遅れており、既に作戦は失敗していた。 pic.twitter.com/eftbmA7bWq

2019-02-06 00:05:41
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小松山古戦場。徳川軍は小松山を占拠した後藤基次率いる豊臣軍を包囲した。5月6日午前4時頃、後藤基次らは小松山を西から回り込もうとしていた松倉重政、奥田忠次らを攻撃した。 pic.twitter.com/Pwh6L1LEeN

2019-01-28 20:36:06
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奥田忠次戦死之墓地。徳川軍先鋒の奥田忠次は小松山を登ろうとしたところ、後藤基次らの猛攻撃を受け討死した。享年42 pic.twitter.com/8j3Gl6EekG

2019-01-28 20:49:09
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小松山を北から攻撃した松倉重政隊も壊滅しようとしていた。しかし水野勝成らの救援、そして伊達政宗隊の小松山攻撃が始まり元々数で劣る後藤基次らは小松山で追い込まれていく。 pic.twitter.com/6z5bDHocow

2019-01-28 21:54:19
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「死にたくない者は今から去れ。」後藤基次はそう言うと小松山を西に下り部隊を2つに分けた。そして徳川軍に最後の突撃を開始した。 pic.twitter.com/7U6n3ewJnP

2019-01-28 22:05:51
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後藤又兵衛基次之碑。徳川軍に突撃した後藤基次は乱戦の末、伊達政宗の家臣、片倉重長率いる鉄砲隊の銃弾を胸に受けて討死した。享年56 pic.twitter.com/vCCKecC4sA

2019-01-28 22:13:46
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胸を撃ち抜かれた後藤基次は主君の豊臣秀頼から授かった「行光」という脇差で自身の首を家臣の吉村武衛門に刎ねさせたという。 pic.twitter.com/pjqUBdoDr3

2019-01-28 22:29:30
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吉村武右衛門之碑。吉村武右衛門は後藤基次の首を敵に見つからないよう深田に隠した。その後の吉村武右衛門の動向は諸説があり不明。 pic.twitter.com/fFUhtCY2So

2019-01-28 22:37:53
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又兵衛桜。伝後藤家の屋敷跡に生える桜。後藤又兵衛基次は大坂から落ち延び僧侶となり宇陀で生涯を終えたという伝承がある。この伝承の真相は不明。 pic.twitter.com/Cz5jCnu9JW

2019-06-07 22:00:02
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5月6日正午頃、小松山の後藤隊は壊滅した。小松山を攻め落とした徳川軍は遅れて到着した豊臣方の薄田兼相、明石全登隊を攻撃した。 pic.twitter.com/rX7jVbWoK8

2019-01-29 06:49:36
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誉田八幡宮。応神天皇を祀る神社である。遅れて参陣した豊臣方の薄田兼相はこの神社境内に本陣を置いた。 pic.twitter.com/ZCYnDZhPEE

2019-01-29 07:03:40
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徳川軍先鋒大将の水野勝成は豊臣方の薄田兼相の獅子奮迅の戦いぶりを見て薄田兼相を討ち取るよう部下に命じた。水野勝成は大将の身でありながら小松山の戦いでは一番槍を上げていた。 pic.twitter.com/mdvwUHmI3d

2019-01-29 22:34:07
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薄田兼相墓。豊臣方の薄田兼相は乱戦に自ら突入し、槍や太刀を振るい、それらがなくなれば槍の柄、最後は素手で戦い敵兵を何人も倒したが、落馬して討死したという。 pic.twitter.com/CyTkNnikDE

2019-01-30 07:02:20
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石川。この川の西側で激戦が行われた。豊臣方の明石全登は敗走、井上時利、薄田兼相は討死し、豊臣軍前隊は壊滅した。その頃に真田信繁、毛利勝永らの後隊が遅れて誉田に到着した。 pic.twitter.com/rNbvBCzt0Y

2019-01-30 12:37:25
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放生橋。この橋の向こうは応神天皇陵である。真田信繁らは前隊の敗惨兵を引き入れつつこの前方後円墳の上に陣を敷いた。 pic.twitter.com/sJOREt7c6l

2019-01-30 17:24:15
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誉田林古戦場。豊臣方の真田信繁の部隊と徳川方の伊達政宗の騎馬鉄砲隊が乱戦となった戦場である。 pic.twitter.com/iaj2OxEzYZ

2019-01-30 22:08:04
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徳川方の神保相茂率いる神保隊は同じ徳川方の伊達政宗の鉄砲隊の一斉射撃で壊滅した。後に伊達政宗は神保隊の退却で全軍総崩れになることを防ぐ為に神保隊を射撃した、と弁明した。 pic.twitter.com/ImzkkMwsfs

2019-01-31 12:20:26
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道明寺合戦碑。誉田で伊達隊と戦っていた真田隊は後退した。徳川軍と豊臣軍は道明寺近辺で膠着状態となった。 pic.twitter.com/fRLeZyvQZj

2019-01-31 12:45:13
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真田信繁は遅参したことで後藤基次らを討死させたことを恥じ、自身も討死を覚悟した。これに対し毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば豊臣秀頼様の馬前で華々しく死のうではないか」と真田信繁を慰めた。 pic.twitter.com/CNUy5HKFFt

2019-01-31 23:24:46
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真田信繁は「関東勢百万も候え、男は一人もなく候」と言い挑発しながら毛利勝永らと共に鮮やかに道明寺から豊臣軍を撤退させた。徳川軍の追撃は伊達政宗の反対もあり結局実現しなかった。 pic.twitter.com/OGTw4KyH9p

2019-01-31 23:33:40
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真田信繁は徳川家康の使者から信濃一国を条件に寝返るよう言われていたが、「十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と言い寝返りを断っていた。 pic.twitter.com/iudueJFRXJ

2019-02-05 22:37:34
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真田幸村休憩所跡。真田信繁は道明寺から大阪城へ撤退の途中、この場所で休息をしたという。 pic.twitter.com/1sGGrSsoj3

2019-02-01 10:08:33
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志紀長吉神社。真田信繁は休息の後に戦勝を祈願しこの神社に軍刀と六文銭軍旗を奉納したという。 pic.twitter.com/ECmVHe5WE0

2019-02-01 12:19:24
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真田信繁らが大阪城へ撤退した動機については同日行われた八尾、若江方面の戦いで豊臣軍が敗退した事に要因があった。 pic.twitter.com/Q1IU0R1Fgi

2019-02-02 13:04:25
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八尾城跡。徳川方の藤堂高虎の軍勢と豊臣方の長曽我部盛親の軍勢は八尾で交戦していた。八尾城の付近で両軍による激しい死闘が行われたという。 pic.twitter.com/1VUf4BqTc3

2019-06-04 06:41:49
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