リンク限定

壬申の乱。大友皇子の滅亡

2
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

662年、大将軍阿倍比羅夫は唐・新羅連合軍に白村江で破れて敗死した。倭国・百済連合軍は敗走し、百済復興は完全に潰えた。白村江の大敗は倭国に大きな緊張感を作らせた。 pic.twitter.com/33bsmRozvH

2019-02-16 20:44:57
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

水城跡。白村江の戦いに敗れた日本が唐・新羅連合軍の来襲に備えて作った造営施設の一つ。水城の名前の由来は日本書紀の以下の記述からくる。「大堤を築きて水を蓄えしむ、名付けて水城といふ。」 pic.twitter.com/atotsEdLXY

2019-05-21 12:31:44
拡大
拡大
拡大
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

鬼室神社。百済復興の抵抗運動を行っていた百済王族、鬼室福信の子の鬼室集斯を祀る神社である。鬼室一族は百済滅亡後に日本に亡命した。 pic.twitter.com/fpnUvXXwFp

2019-02-16 20:54:09
拡大
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

鬼室福信は百済王扶余豊璋と仲が悪く663年に鬼室福信は病気と偽り扶余豊璋呼び出してを殺そうとしたが逆に殺された。百済国は戦う前から内部分裂を起こしていた。 pic.twitter.com/roGpwFMstF

2019-02-16 21:00:21
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

人魚塚。鬼室神社近くにある塚。人魚の塚だが山中にある不思議な塚。昔はこの塚に小石を投げる風習があったようだ。 pic.twitter.com/3PJsX5wHeh

2019-02-16 21:25:55
拡大
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

百済国が滅亡して日本は孤立した。日本人は唐新羅連合軍の日本上陸を怖れた。これは百済復興支援に力を注いだ天智天皇の完全な失策だった。 pic.twitter.com/yPPUPCniTG

2019-02-16 22:44:55
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

天智天皇こと舒明天皇の第2皇子だった中大兄皇子は若き頃、中臣鎌足と共に政敵の粛清に力を注いでいた。 pic.twitter.com/oVGu7Q3WDU

2019-02-16 22:56:31
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

645年、中大兄皇子は中臣鎌足と共に政敵だった蘇我入鹿、蘇我蝦夷親子を殺して蘇我宗本家を滅亡させた。 pic.twitter.com/L2jf0E7eM7

2019-02-16 23:00:59
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

645年9月、中大兄皇子は蘇我宗本家の後ろ楯を失った古人大兄皇子を謀反の罪で攻め滅ぼした。 pic.twitter.com/7ngjo8AS8u

2019-02-16 23:07:13
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

649年、乙巳の変で中大兄皇子と共謀した蘇我倉山田石川麻呂は謀反の罪で攻められ、妻子と共に山田寺で自殺した。 pic.twitter.com/AZuZnsMfNu

2019-02-16 23:16:12
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

仏陀寺。蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝わる古墳が境内にある寺院。仏陀寺の開基の伝承は失われており、謎に包まれている。 pic.twitter.com/rCE0NB9D0B

2019-04-15 11:32:57
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

仏陀寺古墳。中大兄皇子に謀反の疑いをかけられて山田寺で自害した蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝わる方墳である。この古墳の横口式石槨が露出していることがわかる。 pic.twitter.com/zgjswbwqxt

2019-04-15 07:45:41
拡大
拡大
拡大
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

「聊に願はくは、黄泉に尚し忠しきことを懐きて退らむ。願はくは我、生生世世に、君王を怨みじ」どうやら蘇我倉山田石川麻呂は恨みを残すことなく自害したようだ。 pic.twitter.com/Uq0uN2rg17

2019-04-15 07:55:09
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

蘇我倉山田石川麻呂は恨みなく自害したが、共に自害した彼の妻子はどうだったのだろうか。讒言を行った同族の蘇我日向を恨みながら果てたのだろうか、、 pic.twitter.com/ZGoc4khBhn

2019-04-15 11:22:33
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

658年、中大兄皇子は孝徳天皇の息子の有間皇子を謀反の罪で藤白坂で絞殺した。有間皇子は尋問でも「何もしらぬ」と言い最後まで無実を主張していた。 pic.twitter.com/uD2hxw8rYA

2019-02-16 23:35:47
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

無名指灯籠。天智天皇は大化の改新で蘇我一族を誅殺した罪障消滅させる為、自らの左薬指(無名指)を切り落とし、この灯籠の台座下に納めたと伝わる。その為この灯籠は「園城寺金堂無名指灯籠」と呼ぶ。 pic.twitter.com/xcjuDfbw3n

2019-05-20 20:19:36
拡大
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

669年に中臣鎌足は死んだ。臨終の際、中臣鎌足は天智天皇に「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いた。白村江の敗戦の責任は天智天皇だけではなく中臣鎌足にもあった。 pic.twitter.com/LZQVgrEKpN

2019-02-17 08:17:33
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

阿武山古墳。貴人の墓として知られる古墳。被葬者は大会の改新の功労者藤原鎌足である可能性が濃厚であるが現在古墳は埋め戻されている。 pic.twitter.com/CUHCTI2ByO

2018-12-16 17:20:13
拡大
拡大
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

671年、重病になった天智天皇は弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子はこれを断りその日のうちに剃髪して吉野へ向かった。弟が後事を断ったので天智天皇は息子の大友皇子に後事を託した。 pic.twitter.com/x5DppfW4E8

2019-02-17 09:22:47
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

山科陵。671年12月、天智天皇は山科の山林に馬に乗って出掛けたまま帰って来ることはなかった。その為天智天皇の靴が落ちていたところに墓を造った。それが山科陵だという。 pic.twitter.com/Zz5hmRCEht

2019-02-17 09:32:49
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

吉野宮瀧。大海人皇子は吉野宮瀧という場所で挙兵を宣言した。この宮瀧という場所ははるか昔、八咫烏に導かれた神武天皇が仮宮を造営した場所でもあった。 pic.twitter.com/n96aZTjuYJ

2019-04-17 12:17:41
拡大
拡大
拡大
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

672年6月22日、大海人皇子は吉野宮瀧にて挙兵した。「壬申の乱」の始まりである。大海人皇子は反乱に同調した村国男依の拠点である美濃へ向かった。 pic.twitter.com/0YhA0NeBMk

2019-05-21 06:34:56
拡大
真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

清見原神社。奈良県吉野町国栖に鎮座する神社で祭神は天武天皇。社伝によれば「壬申の乱」の際、吉野で挙兵した天武天皇は「国栖」で「国栖奏」を鑑賞した、という。 pic.twitter.com/cfJNTcoUzQ

2020-12-15 21:32:20
拡大
拡大
拡大
拡大
1 ・・ 4 次へ