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矢尻の池。大友皇子の軍勢の兵士が飲料水を求めて矢尻で掘ったとされる井戸の跡。井戸の脇に道ができるまで水が涌き続けたという。 pic.twitter.com/c4UkuCjWxR
2019-05-21 18:46:37村国男依らの軍勢は息長の横河で大友皇子側の軍と戦って勝利した。そしてその将の境部連薬を斬った。 pic.twitter.com/iJSGN3kVuo
2019-02-17 17:21:44不破関を拠点とした大海人皇子は大友皇子の居城の近江大津宮を北陸道、不破関、奈良の三方面から攻め立てた。(画像はwikiから転載) pic.twitter.com/DD9s69kQWh
2019-02-17 19:15:02三尾崎。琵琶湖西岸北部にある崎で、この場所には三尾氏という継体大王と関係の深い豪族が古代に存在していた。 pic.twitter.com/seOjQZqbBS
2019-02-17 20:45:50三尾城。大友皇子軍は三尾崎に三尾城という山城を持っていた。大海人皇子軍はこの三尾城を攻撃したという。 pic.twitter.com/PXkUfGC3kL
2019-02-17 20:51:17石碑の背後の山が三尾城だったと伝えられているが、三尾城の遺構はまだ確認されていないので現在まだ幻の古代の城である。 pic.twitter.com/exQBMXsWQT
2019-02-17 20:53:46白髪神社。猿田彦命を祀る三尾崎に存在する神社である。白髪信仰の総本山で琵琶湖に鳥居が浮かんでいることでも有名である。 pic.twitter.com/pHxbgMXkC0
2019-02-17 21:03:32白髪神社岩戸社。白髪神社を少し登ると存在する社。この社の正体は横穴式石室である。山頂にも古墳が多数存在しているようだ。 pic.twitter.com/Bs3ATOnFo8
2019-02-17 21:09:49岩戸社内部。中を覗くと開口した石室であることがよくわかる。白髭神社一体に存在する古墳はおそらく三尾氏の古墳であると思われるのでこの岩戸社古墳も三尾氏の首長墓だろうか。 pic.twitter.com/Q0DloYjQ7I
2019-02-17 21:15:46三尾氏はおそらく大友皇子軍として三尾城を防衛していたと思われる。そして三尾城は672年7月22日に大海人皇子の軍勢により落城した。 pic.twitter.com/e66DY3ap89
2019-02-17 21:21:39大海人皇子側で挙兵した大伴吹負らは「高市皇子がの軍勢を率いてきた」と吹聴しまず奈良の軍隊を動揺させた。大伴吹負は奈良の軍隊の内通者の坂上熊毛に内部から呼応させ他の兵士も共に従属させ指揮権を乗っ取ることに成功した。 pic.twitter.com/DxYre5j8Za
2019-02-17 22:48:31大伴吹負は大伴氏再興に燃えていた。大伴氏は任那割譲事件で大伴金村が失脚して以降は没落していた。 pic.twitter.com/eMQAsZUlpk
2019-02-17 22:53:59大和の箸墓で大友皇子軍と大伴吹負ら大海人皇子の軍が戦い大伴吹負らは勝利した。壬申の頃から既に箸墓古墳は「箸墓」と呼ばれていたようだ。 pic.twitter.com/uo2PV898Ji
2019-02-17 23:02:08瀬田の唐橋。村国男依の軍勢は瀬田の唐橋というところで大友皇子の大軍と対峙した。瀬田の唐橋の中程の床板は大友皇子側によって外されていた。 pic.twitter.com/0Q4UVcb4ZQ
2019-05-21 06:41:29村国男依の軍に大分君稚臣という勇者がいた。大分君稚臣は瀬田の唐橋の床板の罠を見破り雨霰のように飛び交う弓矢の中を突破した。瀬田の唐橋を突破された大友皇子の大軍は動揺し総崩れとなった。 pic.twitter.com/6JxOGR3b1Q
2019-05-21 06:46:53膳所茶臼山古墳。大友皇子は瀬田川の戦いで村国男依の軍勢に破れ、矢傷を負い近くにある古墳の墳丘に逃れた。それがこの前方後円墳である。 pic.twitter.com/pw2mKckscB
2019-02-18 20:28:57秋葉神社。膳所茶臼山古墳のくびれ部に鎮座する神社。大友皇子一行はこのくびれ部を抜けてさらに奥へ進んだ。 pic.twitter.com/Vv5dVmCau5
2019-02-18 20:55:02葬り塚。大海人皇子に敗れた大友皇子は小茶臼山古墳の後円部で首を吊って死んだ。在位はたったの八ヶ月で二十五才だった。 pic.twitter.com/UAqGAm4YKT
2019-02-18 21:18:47大友皇子の子供の大友与多王と大友皇子の舎人達も殉死した。彼らは古墳の上に葬られた。それが「葬り塚」である。 pic.twitter.com/etQ1f9gW1L
2019-02-18 21:30:32縊死した大友皇子の近くには物部麻呂が居た。物部麻呂は舎人らと共に主君大友皇子の最後を見届けた。その後、物部麻呂は忠義が評価されたのだろうか、天武天皇に起用されることとなる。 pic.twitter.com/YS5iGM95XR
2019-05-21 22:42:12大津宮跡。中大兄皇子はこの宮で天智天皇に即位した。大津宮は天智天皇の息子の大友皇子の縊死の後、大海人皇子によって廃都とされた。 pic.twitter.com/TN85a46Btl
2019-02-18 21:38:30錦織。大津宮のあった場所は錦部郷と呼ばれていた。錦部郷は機織関係の職務を行っていた朝鮮半島からの渡来人である錦部氏が居住する地域だった。 pic.twitter.com/kQlYtdr94a
2019-03-29 21:59:00祟福寺跡。祟福寺は大津宮遷都の翌年に天智天皇によって建てられた寺院だった。大津宮が無くなった後も繁栄は続いたが、園城寺と延暦寺の抗争に巻き込まれ、鎌倉時代に廃寺となった。 pic.twitter.com/MAyESGu1vZ
2019-03-29 22:09:01大友皇子は天智天皇の失政に対する不満を「壬申の乱」という形でぶつけられた。天智天皇の大化の改新は大海人皇子、すなわち天武天皇に引き継がれていく。 pic.twitter.com/uTN2nKOJh8
2019-02-18 21:47:37将軍塚。この塚には大友皇子側として戦い敗死した将軍達が葬られているという。将軍達とは岸智尊、中臣百足、蘇我真目、犬養五十君、間川千秋、谷直駒、谷塩手ら二十余人のことである。 pic.twitter.com/fw7azCICKN
2019-05-21 08:28:20