0420 歴史文化教室「武田信虎と信玄の誕生」(平山優先生)を拝聴した気づきなど。

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日光81 @nikko81_fsi

平成31年の話だけども(笑)、甲府での歴史文化教室「武田信虎と信玄の誕生」をようやく振り返っている。武田三代の甲斐源氏・武田氏系図が実にすごいというのを改めて実感したのと甲府の建設と拡張という文脈における、信虎と信玄の連続性。どちらも興味深い。

2019-05-05 14:31:37
日光81 @nikko81_fsi

甲斐源氏の歴史通覧。上杉禅秀の乱以前は自分で追ったことがなかったので新鮮。上杉禅秀の乱以前も二度の一族の争い。鎌倉初期は頼朝に睨まれるか気に入られるかが分かれ目。武田信義の子一条忠頼がまず暗殺、有義が梶原景時の変に同心したという嫌疑で没落、末の子石和信光が以降武田家の惣領を継承。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-05-05 14:34:14
日光81 @nikko81_fsi

信光が「五郎」だったことが、信虎までの歴代当主の仮名が「五郎」だったルーツになるのねぇ。他にも仮名を見ていくとすでに「孫六郎」「彦五郎」なる名前も見受けられ、こうした仮名の受け継ぎがあるところが歴史ある名族らしいところかなと。ちなみに武田信廉は孫六、穴山信君は彦六郎。

2019-05-05 14:34:45
日光81 @nikko81_fsi

信光の孫の代で安芸・甲斐守護が分派。石和系の中で長男が安芸(信時流武田氏)、次男が石和に残り石和流武田氏。この系統にすでに「大膳大夫」があることにも注目したい(武田大膳権大夫貞信)。

2019-05-05 14:36:16
日光81 @nikko81_fsi

二度目は南北朝の争乱。信時流が北朝方(武田信武)石和流が南朝方となり没落。ここで信時流の武田信武が再び甲斐守護を兼任。信成が甲斐守護・刑部大輔、信明が信玄母・大井夫人の系統の大井氏の祖、氏信が安芸守護で兵庫助・伊豆守。

2019-05-05 14:37:20
日光81 @nikko81_fsi

官途・受領を見るクセをつけると、安芸守護を継いだ氏信が嫡流といえるのがよくわかる。南北朝期に尊氏とともに戦った信武は、兵庫助・伊豆守を称しており、この官途・受領名を継承。親子関係が問題なく世代交代する場合には官途・受領名が受け継がれるというのはここでも当てはまるのね。

2019-05-05 14:38:02
日光81 @nikko81_fsi

それに甲斐守護の信成は通り字「信」が先に来ているけど、安芸守護の氏信は通り字が下。これ足利尊氏の「氏」の偏諱なんだろうなぁと思うと、やはり偏諱を受ける方が嫡流なんだろう。

2019-05-05 14:38:48
日光81 @nikko81_fsi

興味深いのはこの氏信・信成兄弟の下の弟に薩摩守公信、信濃守義武がいて、公信は京で将軍奉公衆として将軍直属だった奉公衆武田氏(京都武田氏)の祖、義武は穴山武田氏の祖。ほええ…いろんな武田がいるんだのいろんなが繋がってく瞬間です。

2019-05-05 14:39:11
日光81 @nikko81_fsi

家格としてはやはり、安芸武田氏が1番だったのが、その嫡流が若狭に移って若狭武田1番、残された安芸武田次点、甲斐武田はその次。嫡流を安芸守護にするのは信武が安芸守護を担った信時流という立場もあったのだろうねぇ。

2019-05-05 14:39:49
日光81 @nikko81_fsi

信武は、安芸武田氏に引き継がれた伊豆守・兵庫助以外にも陸奥守を名乗っていて、武田三代の系図上はここが初見。ちょっと気になるのは信成が新たに刑部大輔に任官しているが、その次代信春は、伊豆守・陸奥守・兵庫助とあって…ここにも何か謎があるのだろうな。

2019-05-05 14:40:27
日光81 @nikko81_fsi

さらにその先もおもしろくて、その信春の子が上杉禅秀の乱に加担し天目山で自害した信満。信満が後に信玄が名乗る大膳大夫で安芸守。成春が父信春の刑部大夫を継承、穴山満春、兄信満死後に後に宗家を継承する信元は陸奥守。この辺のぐちゃぐちゃ具合も気になる…

2019-05-05 14:40:50
日光81 @nikko81_fsi

ということで、系図って仮名・官途名・受領名が揃って記載されていると、おもしろさが大変アップしますねーというのが実感できました(笑)

2019-05-05 14:42:02
日光81 @nikko81_fsi

この流れから行くと、信虎の左京大夫は例のない過去例のない?任官で、晴信に継承させたあと陸奥守と名乗るほうがそれまでの武田の官職の流れからは自然だねぇ。そして左京大夫を捨てた晴信が選んだのは、大膳大夫。これがなぜか?というのを気になりはしつつもスルーしてたんですよ。

2019-05-05 14:42:47
日光81 @nikko81_fsi

単発で大膳大夫を名乗った人物はいたものの、家として継続して任官されていたのが若狭武田氏。先祖以来の伊豆守や安芸武田由来の治部少輔のほか、若狭武田氏二代目の信賢から代々、大膳大夫を名乗っているようで。幕府からの信も篤く、一族では最も高い官位を有していたようです。

2019-05-05 14:43:59
日光81 @nikko81_fsi

恐らく家督継承直後くらい?の天文10年に左京大夫→大膳大夫に変わったのかな。晴信が大膳大夫を選んだというのは、勢力の衰えが見えていた若狭武田氏に代わって室町将軍家を支える立場にあるという宣言かもというのはなるほどと思える。

2019-05-05 14:50:24
日光81 @nikko81_fsi

象徴的なのは、天文20年(1551年)に死去した第6代若狭武田氏当主元光の跡を継いだ、武田信豊(信玄甥の信豊とは別人物)は最後まで大膳大夫に任官できないまま。ちょうど家督争いで揉め始め勢力を落としていく…という状況がなんとも象徴的に思えた。

2019-05-05 14:51:25
日光81 @nikko81_fsi

左京大夫を捨てる意味(父との決別・北条氏への配慮)とともに、今回大膳大夫の意味を理解できたのはおもしろかった。そしてこの後、大膳大夫は甲斐武田氏を象徴していく官途名になっていくんだよね。勝頼は父の官途を自称するし、末の息子信清は上杉景勝のもとで「大膳大夫」を称し、その後継を主張。

2019-05-05 14:52:10
日光81 @nikko81_fsi

また江戸時代に高家に列した武田家も代々大膳大夫を称するのだよね。また信濃守は代々小笠原氏が任官、信濃侵攻の大義名分というのはわかりやすい。仮名・官途名・受領名はそれ単体ではなく一族や他勢力との関係で見ていくとほんとおもしろい。何かを受け継ぐ・受け継がないという意思がそこにはある。

2019-05-05 14:54:18
日光81 @nikko81_fsi

甲府建設。ずっと平山先生が言ってられたのは、ゼロから都市を形成して領国・藩・県のの中心として栄え、今も名称が変わらない都市は甲府だけだってこと。甲府市の皆さん誇り持ちましょうね、と(笑) twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-05-05 14:55:21
日光81 @nikko81_fsi

よく言われる集住化武家や町場の一元形成という側面だけでなく、あ!と思ったのは信虎・信玄の都市づくりには、①人を移す、だけでなく②人が集まるところを移すという点が認められ、②はつまり甲府への求心的な構造をつくるという意図。なるほどねぇ!集めるだけではなく集まるようにする発想。

2019-05-05 14:56:47
日光81 @nikko81_fsi

人が集まるもの移すという点で信虎の功績は、甲府盆地の治水の守護神として尊崇を集めていた国母地蔵の甲府移転。信玄期拡大する分国一円に拡大させ、信濃善光寺の移転で甲府を善光寺信仰の拠点に。人が集まる信仰の対象そのものを移転し、甲府をまちとして成長させようという観点で捉え直すと新鮮。

2019-05-05 15:01:14
日光81 @nikko81_fsi

伝統ある守護家出身だからシガラミで本拠を動かせなかったというだけでなく、まちづくりにも長い年月をかけてじっくり育てるやり方が浮かびあがってくる。あたかも重臣も近習から自身のそばにおき、特に優れた人材を長い時間をかけて経験を積ませて育て上げるというやり方との共通点を感じますな。

2019-05-05 15:02:18
日光81 @nikko81_fsi

と考えると、軍事的な観点から拠点を移すという発想は、信玄にはあまりなかったんだろうな、と想像しますね。勝頼期最晩期のような危機的状況を信玄が迎えていたら、どうしたでしょうね?判断の是非はその時々の環境にによるわけですが…

2019-05-05 15:04:07
日光81 @nikko81_fsi

新府城に移る際に重臣層(譜代家老衆?)は同意せず移らない者も多かったというが、単に勝頼に従うのが躊躇われるというだけでなく、「この辺の都市を育ててきた」という感覚が武田家中にもあったのだとしたら、それは離れがたかったのだろうなとも想像。

2019-05-05 15:05:04