2019年3月 京都の歴史旅

2019年3月に訪ねた京都の旅。平安時代~幕末まで大好きな日本史にまつわる寺社仏閣や石碑などをめぐりました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

龍馬が隠れた材木小屋推定地は、ここの他にも薩摩藩邸近くの土橋付近も候補地として挙げられています。伏見観光協会などではここ大手橋の説を採ってこちらに碑を建てたようです。

2019-05-14 14:38:11
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伏見薩摩藩邸跡 (京都市伏見区東堺町470 松山酒造株式会社) 伏見の薩摩藩邸跡は現在は松山酒造株式会社の建物になっています。 寺田屋で坂本龍馬が襲われた時、恋人のお龍はここに駆け込んで助けを求めました。寺田屋から薩摩藩邸までは1kmほどの道のりですが、 pic.twitter.com/IJfdknukhm

2019-05-14 14:38:11
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奉行所の役人に捕らえられる危険もかえりみず、暗い夜道を必死にここ薩摩藩邸までやって来た事を思うと龍馬はお龍にとても愛されていたのではないでしょうか。 幸いにも伏見留守居役・大山綱昌に取次いでもらい 難を逃れた龍馬は、お龍と共にこの藩邸で数日過ごした後、2人で鹿児島へ向かいます。 pic.twitter.com/aJs7n7muxl

2019-05-14 14:38:13
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円通山大黒寺 (京都府京都市伏見区鷹匠町4) 大黒寺は円通山と号する真言宗単立の寺で空海(弘法大師)の開基と伝わります。元は長福寺といい、豊臣秀吉が深くこの寺を信奉したのをはじめ、武家の信仰も厚かったようです。 #京都の歴史旅 #幕末 pic.twitter.com/ydK9cqxbZv

2019-05-16 15:30:17
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江戸時代の初め この近くには薩摩藩邸が置かれ、薩摩藩主・島津家の守り本尊「出世大黒天」と同じものがこの寺に祀られていた事から1615年(元和元年)に薩摩藩の祈願所と定められ、大黒天を本尊として寺の名も大黒寺と改められました。 通称・薩摩寺とも呼ばれたそうです。 pic.twitter.com/3xjbfSpnqA

2019-05-16 15:30:19
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幕末には西郷隆盛や大久保利通が国事を論じた部屋があるほか、明治維新の志士の遺墨なども所蔵しています。 ここには1862年5月21日(文久2年4月23日)に起こった「寺田屋騒動」で命を落とした薩摩九烈士の墓が在ります。 pic.twitter.com/ldku2inpjW

2019-05-16 15:30:20
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境内には西郷隆盛が建立したという 有馬新七ら犠牲になった九烈士の墓碑や、木曽川治水工事の犠牲となった平田靱負のお墓や「金運清水」と命名された井戸が在ります。 #京都の歴史旅 #幕末 pic.twitter.com/gNo7nIhs1o

2019-05-16 15:30:22
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ちなみに、有馬新七のお墓は生まれ故郷の鹿児島県日置市にも在ります。こちらは2017年(平成29年)3月に訪ねた写真。 pic.twitter.com/mgUWweOBul

2019-05-16 22:39:10
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そして鹿児島市の鹿児島城近くに在る薩摩義士の碑。こちらも2017年(平成29年)3月に訪ねた時の写真です。 pic.twitter.com/YE1srjSrgh

2019-05-16 22:43:40
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鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋 (京都市伏見区中島御所ノ内町 鳥羽離宮跡公園) 1867年11月9日(慶応3年10月14日)に大政奉還し、大坂城に居た15代将軍・徳川慶喜は薩摩を討つため上洛を決意。 1868年1月27日(慶応4年1月3日)幕府軍本隊は鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍しました。 pic.twitter.com/nmcVCDbLzg

2019-05-20 13:44:54
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鳥羽街道を北上する幕府軍とこれを阻止しようと竹田・城南宮周辺に布陣した官軍はこの地・小枝橋で衝突します。 幕府軍15000人と官軍6000人の激しい戦いになりました。この石碑は翌年夏まで続いた戊辰戦争の発端となる鳥羽伏見戦の勃発地を示すものです。 #京都の歴史旅 #幕末 #鳥羽伏見の戦い pic.twitter.com/BA6MBlKWVV

2019-05-20 13:44:55
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鳥羽伏見の戦い勃発地 (京都府京都市伏見区中島秋ノ山町) 1868年1月3日(慶応3年12月9日)に薩摩・長州は王政復古の大号令を発すると共に 15代将軍だった徳川慶喜に「辞官納地」を命じます。 しかし 慶喜は自分だけで即決は出来かねるとして、とりあえずは恭順の姿勢をみせ、 pic.twitter.com/ehSFIweCSl

2019-05-20 20:07:51
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京都二条城を退去して大坂城に移りました。その後の慶喜の動きに不審をおぼえた薩摩藩は、もはや政治的な駆引きでは解決は望めず開戦あるのみと決して、江戸で挑発的な破壊活動を行いました。 これに憤慨した庄内藩による「薩摩藩邸焼き討ち事件」の報が大坂に伝わると、旧幕臣の間では薩摩討伐を pic.twitter.com/lV4dW5GhlP

2019-05-20 20:07:52
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求める声が高まり、ついに慶喜は京都への出兵を命じます。旧幕府軍の幕府歩兵隊は、淀・伏見方面から鳥羽街道を北上して京都入りを目指し、会津藩・桑名藩・新撰組は、伏見奉行所を本拠地に伏見市街に展開。 これに対して薩摩藩を中心とした新政府軍は、城南宮から小枝橋方面に東西に長い布陣を敷いて pic.twitter.com/CftrI9lKEc

2019-05-20 20:07:54
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北上軍への備えとし、また伏見の御香宮にも砲兵部隊を配置します。 3日の夕方に鳥羽街道、竹田街道を北上してきた旧幕府軍と薩摩軍の前衛が接触し、旧幕軍の先鋒を務める大目付・滝川具挙と、薩摩軍の椎原小弥太が押し問答を繰り返しますが、そのうちに薩摩側が発砲。 これによって戦端は開かれ、 pic.twitter.com/tVgp7F6WrW

2019-05-20 20:07:55
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伏見方面でもその砲声を合図に激しい戦闘が始まりました。戦力は旧幕府側の15000に対し、新政府(薩長)側は4000~5000と劣勢でしたが、旧幕府側の拙攻と薩摩藩の大砲の威力によって緒戦から新政府軍側が優勢となります。 さらに翌4日には新政府軍に土佐藩が参加し、加えて新政府側に朝廷から

2019-05-20 20:07:56
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錦旗が与えられると「賊軍」となった旧幕府軍は戦意を奪われ、各地で敗退しました。 この地は、幕末の頃に小枝橋が在った場所だと地元のタクシーの運転手さんから教えていただきました。 鳥羽離宮公園と今回ご紹介した場所は比較的近いですが、最寄り駅は近鉄線・地下鉄烏丸線の竹田駅が最寄です。 pic.twitter.com/xgfaTohX5e

2019-05-20 20:07:57
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以前紹介した「伏見口の戦い・激戦地」などの石碑は京阪・中書島駅から徒歩で散策できる場所に在ります。 移動距離にすると、徒歩では片道約4kmかかりますのでご注意ください。また次からご紹介する石碑は京阪の淀駅周辺の石碑になります。 #京都の歴史旅 #幕末 #鳥羽伏見の戦い pic.twitter.com/BE3vmDkqJh

2019-05-20 20:07:58
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時系列が前後しますが、次は京阪淀駅周辺の幕末の石碑へ─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ 京都市街地から1本で行けるのは本当に便利(´,,•ω•,,) pic.twitter.com/uXaB4OdNVK

2019-05-21 18:04:51
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戊辰役東軍西軍激戦之址/戊辰役東軍戦死者埋骨地 (京都府京都市伏見区納所下野) この碑は幕末の「鳥羽伏見の戦い」で激戦地となった宇治川堤千両松の地に建っています。 もともと戊辰役東軍戦死者埋骨地という碑が1907年(明治40年)に建っていました。 #京都の歴史旅 #幕末 #鳥羽伏見の戦い pic.twitter.com/g9IlouHioL

2019-05-21 20:26:02
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この時、東軍戦死者四十年祭典が京都十七日会により挙行され 併せて15基の碑が建立されました。十七日会は徳川家康の命日である十七日(元和2年4月17日)にちなんだもので、徳川家恩顧者の会です。 碑は2つのカテゴリーに分けて建立されています。

2019-05-21 20:26:04
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「戊辰之役東軍戦死者之碑」と刻んだ3基の招魂碑と「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻んだ12基の碑です。 それぞれの碑は同一形式で刻まれた文字も表題部は同じで 招魂碑は榎本武揚の書によるものです。 1925年(大正14年)隣接地に京都競馬場が建設され、1967年(昭和42年)には大駐車場が新設、 pic.twitter.com/BrCLmMviXf

2019-05-21 20:26:04
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同時に駐車場と競馬場を結び京阪線を跨ぐ高架自動車道が付けられました。 俗伝によればこの高架橋建設時に埋骨地の碑を撤去したところ、工事現場に怪異が起きた為 慰霊祭が行われ、埋骨地碑は元に戻されたそうです。 確証はありませんが この碑もその慰霊のために建立されたと思われます。 pic.twitter.com/AK6gzwPAoy

2019-05-21 20:26:06
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この鳥羽・伏見の戦いの「淀・千両松の戦い」では新撰組も戦っています。 1868年1月29日(慶応4年1月5日)淀まで退却していた新撰組は淀千両松で官軍と激突、 その最中に新撰組六番隊組長・副長助勤の井上源三郎は敵の銃弾を腹部に受けて戦死しました。享年40。 pic.twitter.com/q9AXbqYPdW

2019-05-21 22:59:32
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源三郎の首は京都に埋葬されたと伝わっています。今回は墓参出来ませんでしたが、2年前の2017年7月に日野市宝泉寺に在る井上家のお墓にはお参り出来たのでその時の写真を。 #幕末 #鳥羽伏見の戦い #新撰組 pic.twitter.com/RCvHMoNpR9

2019-05-21 22:59:34
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