2019年3月 京都の歴史旅

2019年3月に訪ねた京都の旅。平安時代~幕末まで大好きな日本史にまつわる寺社仏閣や石碑などをめぐりました。
日本史 京都 平安時代 幕末 平清盛 豊臣秀吉
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♡もえ♡日本史 近代史と手越くん♡ @MoeK20060408
和泉式部供養塔と誠心院 (京都市中京区新京極通六角下ル中筋町487) ここは 華嶽山東北寺誠心院と号する真言宗泉涌寺派の寺です。 時の関白・藤原道長が、娘の藤原彰子に仕えていた和泉式部のために法成寺東北院内の一庵を与えたのが寺の起こりといわれます。 pic.twitter.com/XWI46bDJgt
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当初は御所の東側に在りましたが、その後 上京区一条小川に再建され、1573~91(天正年間)にこの地に移されました。 和泉式部は才色兼備で知られる平安時代の代表的な女流歌人で、代々の勅撰集に収められている和歌は247首に及びます。 pic.twitter.com/bsHmKvQl7I
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本堂は小御堂と呼ばれ、境内には 式部の墓と伝える宝篋印塔及び式部の歌碑が建っています。 #京都の歴史旅 #平安時代 pic.twitter.com/H7s8D7Ituz
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本間精一郎遭難之地 (京都府京都市中京区下樵木町208) 越後出身の勤王志士・本間精一郎が、土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛ら6名の刺客に襲われて命を落とした場所です。 本間精一郎は清河八郎や吉村寅太郎などと連絡をとりながら、京都で尊皇攘夷運動に身を投じていました。 pic.twitter.com/flcHHqPmfL
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しかし能弁で才が利き過ぎた為か、同じ志士仲間の信用を失い、裏切り者として命を狙われるようになります。 尊攘運動の英雄になろうとしていた事を警戒されたとも、佐幕派と通じていたとも言われています。 #京都の歴史旅 #幕末
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長曽我部盛親公埋首地  (京都府京都市下京区本塩竈町 蓮光寺前) 五条通の南、河原町通の1本西側にある富小路通沿いに 浄土宗の蓮光寺というお寺が在ります。山号は負別山。 1492年(明応元年)真盛上人が高野山の苅萱堂に模して新町高辻に創建したのが始まりとされます。 pic.twitter.com/DzMinGvQkf
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当時は天台宗で萱堂と号しますが、その後 光順上人が浄土宗に改めました。本尊は快慶作と伝える負別阿弥陀如来。地蔵堂には駒止地蔵が祀られています。 境内には土佐の長曾我部盛親の墳墓が在ります。長曽我部盛親は土佐の戦国大名で、長宗我部元親の四男です。 pic.twitter.com/sXisNIfWdo
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父・元親の死後に長宗我部家の家督を継いで長宗我部氏第22代当主となり、関ヶ原の戦いで西軍に属しますが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表しました。 しかし、兄・津野親忠を殺害した事を咎められ 領国を没収され浪人となったのです。関ヶ原の戦い以降は京都に隠棲していましたが、 pic.twitter.com/P8eIJDBrxx
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大坂の陣で豊臣方に付き敗走。山城八幡付近で潜んでいるところを捕えられ、1615年6月11日(慶長20年5月15日)京都所司代・板倉勝重の命により斬首されました。 この石標は盛親の埋首地を示すものです。 #京都の歴史旅 #大坂の陣 pic.twitter.com/dI46scAtcF
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贈従五位赤松小三郎先生記念 (京都市下京区東洞院通鍵屋町下る西側) 京都市営地下鉄烏丸線五条駅から東へ少し歩き、東洞院通を少し南下した付近に「贈従五位赤松小三郎先生記念」と刻まれた石碑があります。 ここは、信州上田藩士で兵学者・政治思想家の赤松小三郎が暗殺された場所です。 pic.twitter.com/Txr8tALatC
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1831年5月15日(天保2年4月4日)信濃国上田城下に上田藩士・芦田勘兵衛の次男として生まれ、同藩士・赤松弘の養子となり 名を小三郎と改めました。 小三郎は18歳で江戸に出て蘭学や数学・兵学などを学びます。1855年(安政2年)には勝海舟に師事し、従者として長崎海軍伝習所に入りました。 pic.twitter.com/Im6IM6a9Sp
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伝習所では語学や航海術、洋式砲術など、後に彼が兵学者として名を成す基礎を学びます。1859年(安政6年)に伝習所が閉鎖されると、小三郎は上田へ帰り家督を継ぎ、上田藩の藩兵の調練調方御用掛となります。 1866年(慶応2年)京都で英式の兵学塾を開いた小三郎は、多くの藩士らに講義を行いました。 pic.twitter.com/6LxnVjfPJq
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彼の評判は薩摩藩にも届き、やがて薩摩藩に迎えられ 京都の薩摩藩邸で講義を行うまでになります。 この時の門下生には、中村半次郎(桐野利秋)や村田新八、東郷平八郎などがおり、その数は800人を超えたと言われています。 pic.twitter.com/qhZP7GrtWm
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小三郎は政治面に関しても先進的な思想を持っていました。1867年(慶応3年)には、松平春嶽に建白書を提出します。 そこには「二院制議会の創設」「普通選挙による議会政治」「議院内閣制の導入」など、当時としては実に先進的な考えが盛り込まれていました。 pic.twitter.com/F5Ib5caCq5
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また、小三郎は薩摩藩が長州藩と武力討幕計画を固める中、内戦の危機を回避しようと薩摩の西郷隆盛や小松帯刀、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していました。 しかし、1867年9月30日(慶応3年9月3日)京都から上田に帰る途中にこの地で待ち伏せていた中村半次郎(桐野利秋)らに暗殺されます。 pic.twitter.com/odNgVlH2ol
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暗殺の理由は、小三郎が薩摩の軍事機密を知り過ぎていた事、薩摩の武力討幕路線に反対の立場だった事などが挙げられます。
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赤松小三郎のお墓 (京都府京都市左京区黒谷町121 金戒光明寺) 36歳で無念の死を遂げた赤松小三郎の遺体はその後、京都の金戒光明寺に埋葬されました。現地に案内板のようなものは無く、文殊塔に続く石段の中腹に案内の石柱があります。 墓所はここと長野県の上田市に在ります。 #幕末 #明治維新 pic.twitter.com/XS36lEs7al
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天満屋事件跡・中井庄五郎殉難の地 (京都市下京区油小路通旧花屋町下る西側) 「天満屋事件」とは、土佐藩の海援隊に所属していた陸奥陽之助(=陸奥宗光)が 紀州藩の三浦休太郎こそが坂本龍馬を暗殺した犯人と考え、海援隊士・陸援隊士と共に油小路の旅宿・天満屋で三浦を襲った事件の事です。 pic.twitter.com/Ew3WRLfwUK
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1867年12月10日(慶応3年11月15日)坂本龍馬と中岡慎太郎は京都の潜伏先である近江屋で何者かに襲われ、命を落とします。 龍馬と共に海援隊で活躍していた 陸奥陽之助(=後の陸奥宗光)は、龍馬を暗殺した犯人が同年5月に起きた「いろは丸事件」で多額の賠償金を支払わされた pic.twitter.com/vvqOk6U3AN
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恨みをもつ紀州藩の藩士・ 三浦休太郎 だと断じて、彼を討つ事を決意。海援隊・陸援隊の中から仇討ちの同志を募ったのです。 一方の三浦側は事前に危険を察知して、会津藩を通して新撰組に身辺警護を依頼します。 pic.twitter.com/eGCK9n7BXC
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1868年1月1日(慶応3年12月7日)陸奥ら15名の襲撃者は、油小路の旅宿・天満屋2階で護衛の新選組隊士・斎藤一、大石鍬次郎、吉村貫一郎らと共に酒を酌み交わしていた三浦休太郎を襲撃します。 この時、襲撃側で龍馬を深く慕っていた十津川郷士出身の中井庄五郎は、先手として部屋に飛び込み、 pic.twitter.com/lSrDWOkHV8
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三浦と思われる人物に一太刀浴びせますが、その後 燈火が消された為、暗闇の中で海援隊および陸援隊と新撰組の斬り合いになります。 護衛側の誰かが機転を利かせ「三浦を討ち取ったぞ!」との声をあげた為、陸奥らは引き揚げますが、中井は新撰組隊士に斬られ 絶命しました。 pic.twitter.com/IFBf422Vgu
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三浦休太郎は顔を負傷したのみで命に別状なく、戊辰戦争が勃発すると一時捕縛されますが、間もなく釈放されて明治政府に出仕。 維新後は諱である安と名乗り、大蔵省官吏、元老院議官、貴族院議員、東京府知事も務め、1910年(明治43年)に天寿を全うしました。 #京都の歴史旅 #幕末
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月真院・御陵衛士屯所跡 (京都府京都市東山区下河原町528) ここは新撰組を離脱した伊東甲子太郎によって組織された「御陵衛士」の屯所跡です。高台寺・月真院を屯所とした為、御陵衛士は「高台寺党」とも呼ばれました。 この石標は御陵衛士屯所の跡を示すものです。 pic.twitter.com/hnbmteN67z
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伊東甲子太郎は水戸学を学んだ勤王志士で 新撰組中途加入組でありながら文武に優れていました。弁舌も鮮やかな伊東は、若い隊士たちの心を掴んでいきます。 やがて伊東は、佐幕色を強めていく新撰組から離反。自分に心酔する隊士たちを引き抜いて、御陵衛士を結成。 pic.twitter.com/HTuGPBPOrC
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