0525 「武田信虎と信玄の都市づくり」所感

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日光81 @nikko81_fsi

#令和 最初の山梨文化学園・歴史文化教室。信虎・信玄二代の都市づくり。まもなく。 pic.twitter.com/kBVdouVZgA

2019-05-25 13:23:32
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日光81 @nikko81_fsi

甲府の屋形に関する資料の該当箇所をみていくの楽しい。勝山記、王代記のほか、大半が高白斎記。天文年間の頃は高白斎記がないとわかんないことだらけなんだろうな。駒井高白斎ありがとう。同じ地位にいたという意味では跡部勝資や土屋昌続・昌恒とかも日記残してたらいいのになぁ。

2019-05-25 14:43:54
日光81 @nikko81_fsi

だん。躑躅ヶ崎館の土塁が何期にも渡って重なっているのはわかっていたが、最も土盛りされた際に古い堀を覆い尽くすように盛られ、更に現況の堀と軸線がズレていて、信虎期の他の城下町や堀跡との軸線と一致することに驚愕した。。。てことは? twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-05-25 16:00:17
日光81 @nikko81_fsi

この第Ⅴ期の改修はやはり、天文20年の晴信時代とせざるを得ず、西曲輪増設と同期して(軍事的な必要性とは別に)行われたとしか…ということは、大手・西曲輪北虎口の丸馬出も確定はできないが、晴信時代以降とみなし得る。西曲輪と同時じゃないかもだし、勝頼時代に追加された可能性も残るけど。

2019-05-25 16:05:38
日光81 @nikko81_fsi

信虎期と信玄期とで街割と屋形の位置の傾きがずれるという、他の痕跡は①西曲輪下からみつかった西曲輪造営以前の堀跡②武田通りの発掘調査でわかった武田通りと軸線を異にする家臣屋敷区画溝跡③伝穴山梅雪屋敷跡の通路跡の3つ。

2019-05-25 16:10:50
日光81 @nikko81_fsi

真北を基準にした時の傾きがたまたまかもしれないが、鎌倉の若宮大路の角度に一致。また鎌倉の地形(三方を囲まれ南が開ける)や屋形の隣に八幡を据えるなど、室町邸と京を模した信玄とは違い、信虎は鎌倉を意識したのではという仮説はかなりエキサイトできた。

2019-05-25 16:13:37
日光81 @nikko81_fsi

代々の嫡男の仮名「五郎」を「太郎」としたのも、石和五郎に起因する「五郎」ではなく、武田氏の祖・信義「太郎」に由来していて、信虎の意識と視線は源頼朝とその時代にあったのかなぁ。詳しく知らないが、一説には信虎は吾妻鏡を読んでた?(ソース不詳)みたいな話もあるらしい。

2019-05-25 16:17:17
日光81 @nikko81_fsi

あと、武田神社の現社務所ができる前の調査で現況と軸線が異なる建物の柱跡もあるんだってさ。信虎時代のものかも。鎌倉を模倣したかもしれない信虎からは信虎が考えていた価値観が透けて見えるみたいでおもしろい。

2019-05-25 16:19:58
日光81 @nikko81_fsi

一方の信玄は室町と京を意識。屋形の土塁と堀もそうだけど、街割まで変えていくのはすごい変化だよね。このあたりは高白斎記にしっかり記録。勝山記には信虎時代にも屋形は一度焼けてることが記載されるが、2度目は天文12年には武田道鑑(奉公衆だった京にいた武田氏が甲斐武田を頼る)宅から出火。

2019-05-25 16:25:31
日光81 @nikko81_fsi

更に翌月萩原某宅からまた出火、で合計三回の火災。正月二月に火事、同年三月に「常ノ間」柱立、四月に棟上、十月に仮の屋敷(高白斎邸)から移動。翌年三月に御主殿柱立と棟上(早くない?)十二月に御主殿に移る。

2019-05-25 16:32:45
日光81 @nikko81_fsi

御主殿完成パーティの「御祝儀ノ御酒」が気になる。高白斎、この宴の詳細書いて…ないんだろうな。御屋形様の飲みっぷりとか何食べてたとか雰囲気とかそんなんないの?あ、穴山氏はまた例式のよぱよぱで顰蹙買ってた!?!? twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-05-25 16:34:46
日光81 @nikko81_fsi

で、数年後の天文17年〜18年頃に「府中地下人ノ田畠新屋敷被為立間敷之由」だとか「他所へ不出候」というお触れを出しているらしい。これを区画整理を行うためと解釈。従って天文13〜16年頃に屋形の増改築がなされたという考え方。恐らくはこのタイミングで街割の軸線の変更があった?

2019-05-25 16:42:39
日光81 @nikko81_fsi

家臣屋敷も含めて信玄時代の街割の、一応の完成を見るのが天文末〜弘治初。駒井高白斎自身が新屋敷に移るのが天文21年10月、11月には「夜廻ノ番帳」がはじめてくる。先日山梨県立博物館でみた甲府八日市場に出された「夜廻ノ番帳」は弘治二年。夜廻りが始まり開発ラッシュが一段落した感。

2019-05-25 16:47:40
日光81 @nikko81_fsi

そして勝頼の都市づくり、つまりは新府城の評価。過去の武士のあり方から離れ(鎌倉・室町)他の戦国大名と同じく、拠点城郭に城下町を築き、堀で囲む総構と同じ発想で七里岩で三方を遮断して北には能見城で遮断する城下町を取り込む発想だったのでは、と。

2019-05-25 16:52:50
日光81 @nikko81_fsi

尾張徳川家の蓬左文庫の「韮崎城図」に新府城の外側に点在する家臣屋敷の数々。勝頼にも総構的発想があったと解釈するのはおもしろい。位置的にはよく言われるように甲斐一国の中心たる甲府と武田領国内の交通結節点としての新府という違いはあるよね。

2019-05-25 16:56:10
日光81 @nikko81_fsi

鎌倉を範とした信虎、京を範した信玄、そして時代の最先端の本拠のあり方を模索した勝頼。信虎も信玄も人を集めるだけでなく、人が集まる信仰の場を移転させてきた。勝頼が新たな府中を築き発展させていればどんな姿のまちづくりをしたのか、興味が尽きない。

2019-05-25 16:59:44