エマニュエル・ヴァロン講演会「フランスにおける芸術家養成の諸課題 <才能を証明する>ことをめぐって」
- naokatahira
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早稲田でエマニュエル・ヴァロン先生の講演。今朝京都から来て今夜パリに戻るそう。ドイツは知ってたけど、やっぱりフランスも東京宿泊禁止なのかな?
2011-05-16 18:04:13パリ・ヴェスト・ナンテール大学(旧パリ10大学)の先生です。エマニュエル・ヴァロン講演会「フランスにおける芸術家養成の諸課題 <才能を証明する>ことをめぐって」 http://bit.ly/lHWAnF
2011-05-16 18:06:01藤井「今年行われる日本文化政策学会(早稲田)では、芸術に関する教育や人材育成を大会の柱とする予定で、それもあって今回来ていただいた。私の博士論文の指導もお願いしている(会場笑い)」
2011-05-16 18:07:12ヴァロン「演劇博物館ということもあり、ここはライブ芸術に関心がある人が多いと思うが、今日は「芸術教育」という言葉を広く捉えてお話していきたい。ヨーロッパやアジアの例も引いて行きながら、フランスの芸術教育の矛盾を説明して行きたい」
2011-05-16 18:09:32ヴァロン「今日の話のタイトル「才能を証明する」の元々のフランス語には、「才能があるということを確定し、さらに保証する証明書」というような意味がある」
2011-05-16 18:11:01ヴァロン「フランスでは"文化特性"という言葉が濫用される。文化に対する公権力の介入の問題では"模範性"ということも問題。ここでは2つのことを問題にして行きたい。まずは文化の教育においては公的介入が先行しているということ。コンセルヴァトワールは17世紀ルイ16世時代に作られた」
2011-05-16 18:14:17ヴァロン「また、質的だけではなく量的なことも重要。フランスでは文化に対する地方自治体の投資額がヨーロッパの平均額を上回っている。」
2011-05-16 18:15:01ヴァロン「この2つの特徴から考えると、フランスの芸術教育は中央集権型の国家主導型、行政の介入によって作られているという印象を受ける。しかし実情は民間のイニシアチブも多いし、地方分散も行われている」
2011-05-16 18:16:00ヴァロン「しかし後ほど1時間ほど時間をとって皆さんと議論をしたいと思っているのはそういう点ではなく、芸術教育におけるある種の先入観や美の定義についてである」
2011-05-16 18:17:26ヴァロン「芸術に置ける制度や機関が強固で閉ざされていると言っても、フランス自体が閉ざされた国ではない。例えばコンテポラリーダンスはオペラ座のクラシックバレエの制度から抜け出すことで生まれたが、それは振付家の自由に任せることであり、アメリカや日本で教育を受けている」
2011-05-16 18:19:39ヴァロン「最初に挙げた値段が1665年前後に王立音楽アカデミーができたが、その創始者であるリュリーは、自分の名前の綴りを変えてイタリア風からフランス風に変えた。王立音楽アカデミーは音楽の面でフランスの芸術がどのようなものでなければいけないか模範を示した。」
2011-05-16 18:21:56ヴァロン「アカデミーといえば、そこから芸術家が手を切りたいと思う衝動のことも思わずにはいられません。1792年に革命に続いて全てのアカデミーの廃止が決定された。ローマのアカデミーに入れてもらえなかったジャック・ルイ・ダヴィッド(ナポレオンの戴冠の絵などで有名)が廃止を決めた。」
2011-05-16 18:25:12ヴァロン「ダヴィッドのナポレオンの戴冠の絵は彼の最高作とはいえない。彼も最後は王侯貴族の好みに応じたような絵を描くようになった。」
2011-05-16 18:26:18ヴァロン「アカデミズムとは形の世界、外観や表象の世界における一つの秩序を意味する。それを形成することは芸術家に取っても意味がある。第一帝政のころに王政復興と同時に過去と全く同じアカデミーがつくられるようになる」
2011-05-16 18:27:34ヴァロン「ルイ14世時代、リシュリュー枢機卿によって建築等のアカデミーも作られた。一種の選別委員会で、王宮の装飾に相応しい、王の肖像に相応しい作品を選ぶ委員会であった」
2011-05-16 18:28:43ヴァロン「このような機能は第2帝政の時代まで続く。少なくとも1864年(これが今日話す3つ目の重要な時代)、ナポレオン3世がある種の芸術の自由を許す。特に官展落選者のサロンを許可する。そこで印象派の(モネではなく)マネのサロンが成立するわけです」
2011-05-16 18:30:27ヴァロン「このはじめての落選者たちのサロンが開かれるまで、観客に絵画作品が開かれるのは、年に1度のアカデミーのサロンだけであった。1864年以降アカデミーで拒否された人たちの作品を展示する場所もサロンとして観客に開かれるようになっていった」
2011-05-16 18:32:01ヴァロン「確かにアカデミーによる選別が行われていたことはマイナスな、抑圧的な側面だけあったわけではない。意図しない形で別の形式の芸術を育てていた。例えば馬に乗る騎馬芸術やマリオネットなど。コメディフランセーズ以外ではフランス語のセリフがある芸術が禁止されていたが、オルタナティブ」
2011-05-16 18:33:24ヴァロン「なものが育つ場所は他にあったということである。絵画彫刻、その他のアカデミーは、当時の趣味の統治をするという機能もあった。つまり模範例と、最も良い芸術の奉仕者を選び、そうした芸術のプロモーションをしていた」
2011-05-16 18:35:01ヴァロン「まさに第2の機能の方に批評家やアーティストが反発を覚える。新しい藝術の評価をしようとしていた人たちは反発する。今みるとアカデミーフランセーズに入れなかった人たちの方がその後フランス文芸において重要な役割を果たした。現在のアカデミーフランセーズの4割は実業家や学者等」
2011-05-16 18:36:55ヴァロン「もちろんアカデミーは厳しく候補者を選別する。子弟間の伝達のモデルを称揚し、良き統治に対して調和を持っているある種の美の基準が適用される。すなわち王侯貴族にメリットがあるもの。それがセリフの発音や音楽のリズムなどになっていく」
2011-05-16 18:40:10