「進みと安らい」(朝カルでの永井氏の講演を予想する篇)

予習のために。終了後、コメント投稿するかもしれません。
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halching @halching1

たとえば道元禅師が「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のかたに投げ入れて」とするとき、それを無根拠に信じ無批判であることは、道元禅師の意図したことではない。 通常の語感では、盲目的に信じることこそが求められているように感じてしまうところだが。

2019-06-27 10:53:54
halching @halching1

自己を拠り所とした問いが生む信を以て投げ入れるのでなければならない。その自己は〈私〉でなければならないのは当然である。 いのち系仏教やスピリチュアリストがここを誤解したまま「はなち投げ入れ」ようとするのは批判されねばならないだろう。

2019-06-27 10:54:56
halching @halching1

5、道徳的行為(菩薩の実践)をそれ自体として崇めないこと

2019-06-26 19:26:57
halching @halching1

たとえば「存在驚愕」の「驚愕」に「驚くべき素晴らしさ」といった無自覚の称揚を与えないこと、である。無自覚の称揚とは「意味への(無自覚の)指差し」である。すなわち、信の根拠を問うことの放棄であり、放逸そのものであろう。 togetter.com/li/1357915

2019-06-26 19:34:23
halching @halching1

永井氏が「ただ理を貫くことが哲学徒にとっての信である」とされたことがこの議論に重なるように思う。理を貫いた結果見出したことを信ずるのではなくて、理を貫くことそれ自体が信である、と。 理を貫くことを行と、信をさとりと置き換えれば、それはまさに禅の目指すところと重なるだろう

2019-06-26 20:21:50
halching @halching1

またこれは「倫理において、菩薩行とは余功の義務である」と解することもできるだろう

2019-06-27 00:17:37
halching @halching1

菩薩行とはいわゆる義務や正義ではなく、あくまで余功の義務であろうし、つまるところ他律的な「べき」ではなく自律的な「ざるを得ない」の範疇であろう。だからこそよいというか、そこに倫理の根拠を見てもよいのではないか togetter.com/li/1367473

2019-06-27 00:18:09
halching @halching1

さてどうだっだろうか

2019-06-27 19:27:09