自由民権運動の主導者・板垣退助の生涯をまとめてみた

幕末~大正時代に生きた自由民権運動の主導者・板垣退助の生涯をまとめてみた
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1919年(大正8年)7月16日 板垣退助が亡くなりました。享年83。土佐藩士で土佐三伯の1人で明治維新の元勲。 自由民権運動の主導者として知られ「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受け、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられました。 #明治維新 #土佐三伯 pic.twitter.com/30QUdMPufQ

2019-07-16 13:14:31
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1837年5月21日(天保8年4月17日)板垣退助は土佐藩上士(馬廻格・300石)乾正成の嫡男として、高知城下中島町(現:高知県高知市本町通2丁目)に生まれました。 なお、乾家は武田信玄の重臣・板垣信方を祖とした家柄で同じ土佐藩士・後藤象二郎とは竹馬の友でした。 pic.twitter.com/4JAkPDxBGu

2019-07-16 18:23:20
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後藤象二郎生誕の地が板垣退助誕生の地からも近い、高知市与力町5に建立されています。ご近所で仲が良かったんですね(´,,・ω・,,`) pic.twitter.com/3cfabf0gOu

2019-07-16 18:23:22
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坂本龍馬とは親戚にあたりますが、退助は同じ土佐藩の中岡慎太郎の方が気脈が通じたらしく交誼がよく知られています。 しかし 不仲ではなく、龍馬の桂小五郎宛ての書簡には乾退助を紹介する記述があり、また退助も龍馬の脱藩の赦免に奔走するなど、面識があり互いに尊敬しあう関係であったようです。 pic.twitter.com/QgxskAKSNp

2019-07-16 18:23:23
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少年期は腕白そのものでわざとお守りをトイレに捨ててバチが当たるかと試したり「蝦蟇の油を塗ると川に潜っても呼吸が出来る」との言い伝えを信じ、 後藤象二郎と一緒に蛙を捕獲して釜で煮て蝦蟇の油を作り、鏡川に潜水。しかし呼吸が出来ず、蝦蟇の油の効力が迷信だと知った退助は実証主義に転じて

2019-07-16 23:10:03
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当時の人が食べ合わせを気にしていた「うなぎと梅干」「天ぷらとスイカ」を一緒に食べてお腹が痛くなるかなど試したりしていました。 退助19歳の時にこの性格のせいか、高知城下への立ち入りを禁じられます。 pic.twitter.com/zIEJDSIMtR

2019-07-16 23:10:04
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1856年9月6日(安政3年8月8日)高知城下の四ヶ村(小高坂・潮江・下知・江ノ口)の禁足を命ぜられ神田村に蟄居し、ここで身分の上下を問わず庶人と 交わる機会を得ました。この時の触れ合いが「自由民権運動」のベースとなったといわれます。一時は家督相続すら危ぶまれますが、父・正成の死後、

2019-07-16 23:10:05
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家禄を220石に減ぜられて家督相続を許されました。その後の退助は土佐藩の藩行政の最高責任者・吉田東洋からの要請もあり、どんどん出世し活躍していきます。 1861年11月27日(文久元年10月25日)江戸留守居役兼軍備御用を仰付けられ、同年12月22日(旧暦11月21日)に高知を出て江戸へ向かいます。 pic.twitter.com/utuC8XwHlG

2019-07-16 23:10:05
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またこの頃 山内容堂の御前において、土佐藩士・寺村道成と時勢について対論に及び 尊皇攘夷を唱えるようになります。 1863年2月21日(文久3年1月4日)には高輪の薩摩藩邸で大久保一蔵(後の利通)と会見。容堂の本陣に勝麟太郎(後の海舟)を招聘し坂本龍馬の脱藩を赦す事を協議しています。 pic.twitter.com/31LDvr7xZr

2019-07-16 23:10:06
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1867年6月23日(慶応3年5月21日)倒幕のために薩摩藩と土佐藩の軍事同盟である「薩土密約」が結ばれると、翌1868年の戊辰戦争で退助は土佐勤王党の 流れを組む隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍します。 pic.twitter.com/hYVyrZZgBy

2019-07-16 23:10:06
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天領である甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した慶応4年(1868年)2月14日が祖先・板垣信方の没後320年にあたるため 「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であると示して甲斐国民衆の支持を得よ」と 岩倉具視らの助言を得て板垣氏に姓を復します。 pic.twitter.com/d5fD0igs2x

2019-07-16 23:10:07
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この策が講じて甲州勝沼の戦いで大久保大和(=近藤勇)の率いる新選組を撃破。1868年3月29日(慶応4年3月6日)の「甲州勝沼の戦い」で退助は倒幕軍のリーダーとして土佐藩兵を率いて 新政府軍に大勝利をもたらしました。 その後に江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召し抱えられていた pic.twitter.com/StulGltBo0

2019-07-16 23:10:08
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八王子千人同心たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果がありました。東北戦争では、三春藩を無血開城させ、二本松藩・仙台藩・会津藩などを攻略するなどの軍功によって賞典禄1,000石を賜ります。 1868年1月(明治元年12月)には藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増されました。 pic.twitter.com/i2pMDaSYyR

2019-07-16 23:10:10
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退助は官軍の将でありながら、維新後すぐから賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど 徹底して公正な価値観の持ち主であった為、維新後は多くの会津人が感謝の気持ちから土佐を訪れています。

2019-07-16 23:10:12
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1869年(明治2年)退助は木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任。1870年(明治3年)に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発令。 1871年(明治4年)に参議になり西郷隆盛と一緒に征韓論(武力による朝鮮の開国)を訴えます。 pic.twitter.com/1xCrJaLB2P

2019-07-17 18:28:37
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参議とは日本の朝廷組織の最高機関である 太政官の官職の1つです。閣僚にあたる卿より上位で、さらに上位にある右大臣・左大臣・太政大臣などが実質的権限を持たない場合が多かったため、 職掌分担なしに閣僚たちを指導する、いわば集団制の政府首班として位置づけられます。

2019-07-17 18:28:38
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しかし 海外視察から戻った岩倉具視らに反対され、1873年(明治6年)に明治新政府のメンバーから外れ 下野します。 征韓論では敗れた板垣でしたが、板垣や西郷の意見に賛成していた約600人の官僚も一緒に新政府から去り、全国の民衆からも熱い支持を得ていました。 pic.twitter.com/oLTPMI8JIt

2019-07-17 18:28:38
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「明治六年の政変」で下野した退助は 五箇条の御誓文の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、1874年(明治7年)に愛国公党を結成。後藤象二郎らと左院に民撰議院設立建白書を提出しますが、却下されます。 民撰議院設立建白書とは政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書の事で、 pic.twitter.com/pbY54TyChf

2019-07-17 18:28:38
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自由民権運動の端緒となった文書です。愛国公党は天賦人権論に立ち、専制政府を批判して、天皇と臣民一体(君民一体)の政体を作るべきと主張していました。 そのため、士族や豪農・豪商ら平民に参政権を与えて議会を開設せよとも主張しています。 pic.twitter.com/YsZi9z7DSj

2019-07-17 18:28:40
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同じ頃、高知には立志社を設立。1875年(明治8年)大阪会議で参議に復帰しますが、民衆の意見が反映される議会制政治を目指すため間もなく辞して再び自由民権運動に身を投じました。 1881年(明治14年)10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に自由党を結成して 党首に就任。 pic.twitter.com/nwfcXyZbiw

2019-07-17 18:28:40
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以後、全国を遊説して回り始めます。党勢拡大に努めていた1882年(明治15年)4月6日 退助は岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ、負傷します。 その際、板垣は出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、やがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わり始めました。 pic.twitter.com/fJR5HYwXot

2019-07-17 18:28:41
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板垣退助遭難之地 (岐阜県岐阜市千畳敷下 岐阜公園) 1882年(明治15年)4月6日午後6時半頃、小学校教員・相原尚褧が演説を終え帰途につこうとしていた板垣に「国賊」と叫んで胸を刺した現場です。 板垣は命に別状はなく、事件から後に相原は板垣に謝罪しています。 #岐阜事件 #板垣退助 pic.twitter.com/t6RwU0YBd1

2022-06-04 01:17:21
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この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家に出来ない事は残念だ」と語っています。 1884年(明治17年)10月には自由民権運動の激化で栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件が起き、 pic.twitter.com/dn7wwGit91

2019-07-17 18:28:41
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退助は自由党を一旦解党。自由民権運動家の立場から、華族制度には消極的な立場だった退助はこれまで授爵の勅を二度断っていますが、 1887年(明治20年)5月 三顧之礼(三度の拝辞は不敬にあたるという故事)を周囲から諭され、三度目にしてやむなく伯爵位を授爵します。

2019-07-17 18:28:43
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華族当主には衆院選の被選挙権が無い為、退助は衆議院議員にはなれず、また貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つ事はありませんでした。 pic.twitter.com/CF6IlBOlew

2019-07-17 18:28:43
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