- exhell_resident
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彼女を変えてしまったあの事故からすでに一年の時がたつ。医者が言うに、脳に異常はないらしいが、精神面での損傷が致命的だったらしい。ありていにいうなら、ショックで心を閉ざしてしまったという事だ。
2011-05-23 19:34:37カシスオレンジのグラスを両手で握り、にこにこと、天使みたいな笑顔を浮かべる彼女。しかしその無垢さが俺の気分を酷く沈んだものにさせる。将来はフィールズ賞とまで評された彼女の優秀な頭脳は、しかし今や記憶を思い出として残す事すらできない。
2011-05-23 19:35:03彼女の記憶は言わばコンピュータのメモリーみたいなもので、ごくごく短時間しか内容を保っておく事ができない。ハードディスクの記録音が彼女の中で響かない。莫大な空白だけが、茫洋と彼女の意識を司る。
2011-05-23 19:35:28家族も、友人も、そして将来を誓った仲だったはずの俺も、今の彼女にとっては知らない他人だ。毎朝が「はじめまして。ところであなたはどなたかしら?」で始まる日常には、もう慣れてしまった。医者は半ば諦めたような、疲れ切った表情で、とにかく気長にやるしかありませんねと俺に告げた。
2011-05-23 19:35:56今日集まってくれたのは、大学時代のサークルの仲間だ。酒飲んで馬鹿騒ぎしたあの毎日の思い出が少しでも彼女の奥底に眠っていればと、微かな望みを胸に杯を傾ける。最初はきょろきょろと視線をあちこちにやり、戸惑っていた彼女だが、周りはかつての良く知った友人。事情を良く知る気のいい仲間だ。
2011-05-23 19:36:43緊張も解けたらしく上機嫌に甘いカクテルを胃に流し込んでいる。ペースが速い。どうも嫌な予感がした。そもそも彼女はそう酒に強い方では無かった。にぎにぎと、楽しそうに俺の指をいじくってくる彼女の顔は紅潮している。殆ど泥酔しているように見えた。
2011-05-23 19:37:26「次の注文は水で頼む」仲間に目配せする。が、遅かった事を悟る。彼女の豹変を感じる。ヒステリックな甲高い叫び。「ここで出ちゃったらやあよ! やあよ!」今の彼女の顔に張り付いているのはあの笑みでなく、ひたすらに切実な涙だ。
2011-05-23 19:38:12殆どオーバーアクションなまでの訴え。仲間の焦燥する視線。唇を噛みしめた俺は彼女の手を引き、座敷を出る。「やあよ! やあよ! やあよっ!」壊れたラジカセのように彼女は連呼をし続ける。子供のように手をバタバタさせながら。
2011-05-23 19:38:53子供のように手をバタバタさせながら。ああ、そうだ、彼女は子供に戻ってしまったのだ。あの日に見てしまったものがあまりに凄惨すぎて、何も知らない子供にならざる得なかったのだ。「もうちょっとだから、我慢しろよ」「あ、あふぁーっ!」俺の手を振り払い、ヘタレ込む彼女。
2011-05-23 19:39:45「やあよ……やあよゆうたのに……」広がりゆく水たまりと、アンモニア特有の鼻を刺す匂い。ぐずぐずと、彼女の嗚咽。今日も奇跡は起きなかった。「なんか気持ち悪くなちゃったみたいだから、俺、家までタクシーで連れて帰るわ」全てを察した仲間の同情が、痛かった。
2011-05-23 19:40:28深夜1時。静謐が過ぎて不気味なまでのマンション12階。彼女の汚れた衣類を放り込んだ洗濯機の重苦しい回転音。赤子みたいに丸まって眠る彼女の寝息が混じる。俺は新品のラッキーストライクの封を切り、一本咥えた。煙の向こうにお揃いの弁当箱が見えた。からっぽのそれたち。思い出の残滓。
2011-05-23 19:41:14