9/7 第十一回恵林寺講座「武田信繁九十九箇条を考察する」拝聴メモ。

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日光81 @nikko81_fsi

さて、恵林寺講座振り返ろうか。これはほんとに貴重な話題で有り難い限りだった。見つかってもこうして披露されるには長い年月が結果的に掛かってしまうものなんだなぁ… pic.twitter.com/epSW8EQJEr

2019-09-12 10:57:32
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日光81 @nikko81_fsi

まず、九十九箇条という条目数。偶数を避け奇数を尊ぶ中世的な条目数の設定。先日、重陽の節句だったが、陽数の極である「九」の重なりで重陽とのことだった。そんな陰陽思想とも関係があるのかもしれないね。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-09-12 11:00:53
日光81 @nikko81_fsi

武田信繁九十九箇条、長年誤解されていたことがあるらしく、甲陽軍鑑の冒頭に信玄家法の上下の「下」として江戸時代は捉えられていたらしい(塙保己一「群書類従」)。それが堀木本といわれる九十九箇条の写本が見つかったことで、小幡の編集に誤りがあったとわかったそうな。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-09-12 11:04:43
日光81 @nikko81_fsi

九十九箇条の序文を甲州法度之次第(信玄家法上)の末文と捉えて編集をしたことで、甲州法度之次第と九十九箇条が続き物としてミスリードさせる編集になっていたということ。肝になったこの九十九箇条序文、甲府長禅寺の岐秀元伯の後を継いだ春国光新によるもの。末にある「龍山子」とは彼のこと。

2019-09-12 11:10:21
日光81 @nikko81_fsi

ここに「ここに武田信繁(中略)その世子を諱して長老と称す」とあって、直接の宛先が信豊であり、長老が信豊を指すことがわかる。その信豊を指して曰く「敏にして学を好むこと、玉の盤を走るが如く、錐の嚢を脱するが如し、ししとして倦まず」とあり、幼い信豊の聡明さが爆アゲされております!!!

2019-09-12 11:18:08
日光81 @nikko81_fsi

こんな刺さる序文なのに、この九十九箇条についての研究は、堀木本が見つかって論文が出されて以降、その後の研究もなく放置されて、約15年前に平山先生の目に新しく発見された今回の「雨宮本」が留まるまで、長く話題にならなかった…

2019-09-12 11:21:33
日光81 @nikko81_fsi

九十九箇条は永禄元年に書かれたとあるんだけど、なぜ永禄元年なのかの考察。永禄元年は信玄公の信濃守護職補任が影響大きいとのこと。これによって信濃進出の正当性を得て、武田の権威拡大が進む画期となった。そこで信玄公から抜群の信頼を得ているNo.2信繁が家臣団の引き締めを狙ったものでは、と。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-09-12 11:28:24
日光81 @nikko81_fsi

にゃるほどねぇ、こういう行動ってトップじゃなくて、No.2である信繁がやる意味が大きいのだろうなと感じたね。それも家臣団引き締めを狙いながらも、幼い息子に諭す体をとっている工夫。それでも甲陽軍鑑や堀木本・雨宮本と伝わっていることから、広く規範として認識されていたということなのだろう。

2019-09-12 11:30:45
日光81 @nikko81_fsi

そして、これは知識としては知っていた武田信繁のあまりにもすごい漢籍教養の高さ。信玄公や逍遙軒もそうなんだけど、守護家たる武田家の教育に文才名高い大井家が合わさって、三兄弟とも文芸に秀でてますもん… twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-09-12 11:33:20
日光81 @nikko81_fsi

引用された漢籍を平山先生がまとめてくださっていたんだけど、多すぎて書ききれない!引用件数トップの論語をはじめ、呉子、孫子(意外なことに3位)、礼記、史記、韓非子、三略、孔子家語、尚書、管子、淮南子、六韜、春秋左氏伝、漢書、後漢書、軍識…まだまだ…どんだけ、、、

2019-09-12 11:38:32
日光81 @nikko81_fsi

変わりどころでは、法華経や(和歌を嗜むべしとの項で)古今和歌集。もう平伏するしかないですね…恐れ入りました…お経が入っているのが興味深いですね。たまたま法華経だったとしたら、経典も莫大な量を読みこなしているんではないでしょうか、古典厩信繁。

2019-09-12 11:43:04
日光81 @nikko81_fsi

雨宮本そのものについて。よい紙が使われていて、平山先生からみても雨宮本が写されたとされる天正六年頃の文字として近似しているとのこと。やっぱり初めて見たときの感覚合ってたんだ!そのほか、近世にはない崩し字の様式もあり、堀木本よりも古い写本?原本もしくはそれに近い写本から写された? twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-09-12 11:46:42
日光81 @nikko81_fsi

甲陽軍鑑版と比べ、条文の入れ替わりがあったり、一部条文の欠失や根拠とされる出典を省略した箇所もあるとのこと。これは個人的な感覚なのだけど、雨宮本の最後「序語一円無分別所おほく御入候、さりながら本にまかせてかきうつし進上候 主末木惣三殿参」とある部分が少し自体が細い気がした。

2019-09-12 11:52:31
日光81 @nikko81_fsi

あまりに元亀~天正にかけての書状に似ているため、信玄公の右筆が書き写したのかななどと思ったんだけど、「序文がよくわからないのだけど、引用元にあるまま書き写して進上した」「主」ということから、末木の従者かなぁとも。あるいは右筆だけど序文がわからなかったとか?

2019-09-12 11:55:46
日光81 @nikko81_fsi

後半は九十九箇条をなぞっていきます!個人的に気になった条文をいくつかご紹介。①礼儀作法。引用されている漢籍の部分が興味深く、条文を掲げた信繁の意図が垣間見えるようでおもしろい。曰く史記からは「礼儀がなっていれば(部下に)命令しなくても動き、礼儀がなっていなければ命令しても従わず」 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-09-12 12:02:12
日光81 @nikko81_fsi

礼記に曰く「人、礼あるときんば安し、礼なきときは危うし」もちろん、御屋形様(信玄公・勝頼公)への忠心も説かれてますが、部下に礼を尽くし慇懃たれというのが、もう信繁っぽくて好き。

2019-09-12 12:05:04
日光81 @nikko81_fsi

②虚言 基本的に虚言はだめといっているのだけど、武略の時は時宜によるというのが当時らしい。虚言やむを得ずの例に孫子が出ているのが、すごいフィット。

2019-09-12 12:06:32
日光81 @nikko81_fsi

③言葉で人を知る 『身体に相当せざる儀、一言も出語すべからざること。応機に曰く、人一言を出して、その長短を知る』相応しい知識や力量を備えていないのに、専門家づらして知ったかぶりするな、と。…気をつけます

2019-09-12 12:08:53
日光81 @nikko81_fsi

④風流(趣味)やりすぎ禁止 史記に曰く、酒極まるときんば乱れ、楽しみ極まるときんば悲しむ…これを見た穴山幡龍斎の顔が見たくてしょうがない日光であった(オマエモナーという声も聞こえる…ウッ

2019-09-12 12:11:05
日光81 @nikko81_fsi

⑤部下の取り扱い 家中の郎従に対して慈悲肝要のこと、家来の者、病気にかかったら手間がかかっても見舞いしてやれ、軍識に曰く士を思うこと、自らが喉を渇いて水を欲するように気に掛けよ。ね、聞いてますか!現代で部下を持ってる人たち!!!

2019-09-12 12:15:40
日光81 @nikko81_fsi

諫言には従うべし、褒美は迅速に、適材適所など信玄公もおっしゃってそうなことでもあるよね。

2019-09-12 12:22:02
日光81 @nikko81_fsi

⑥戦での心構え。40条あたりから合戦での要諦の話に。押し太鼓引きの鐘が実際使われていたであろう文言や「未だ備えを定めざる所を撃つべき」なんかは孫子感ある。一方敵に向かうときはわざと手荒に部下を扱い、敵愾心を出させて相対させるというのはユニーク。でもちゃんと司馬法にあるんだよね。

2019-09-12 12:27:31
日光81 @nikko81_fsi

甲陽軍鑑に出てくる敵の分類の仕方が九十九箇条でも出てきていて、実際そう認識されていたんだというのも興味深い。曰く、和敵=敵対してはいけない和するべき敵、破敵=攻撃を加え破るべき敵、随敵=切り従え味方にすべき敵。

2019-09-12 12:30:28
日光81 @nikko81_fsi

これもまた興味深い話。「食物到来の時、眼前伺候の衆に少しずつ配分すること」つまり、食料が来たら皆に行き渡るように気を配れということ。三略の人数に対して酒が足らぬとき、川に投げこみその川の水をすくって飲んだ(それで皆が飲めるようにした)というエピを添える。

2019-09-12 12:32:53
日光81 @nikko81_fsi

戦争の時、あるいは現代だったら災害などの非常事態の時、必需品に配分の偏りが出ると、致命的な不満が出るというのはよく想像できる。なるほど。

2019-09-12 12:34:44