【秦王朝崩壊の元凶】趙高・非宦官説について解説! 趙高は宦官ではないが、宦官でもあった?
- mamesiba195
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結論から言いますと、前漢(正確には新代)までは宦官・宦者・宦人=去勢した男性、とは断言できません。『宦』は『宦(つか)える』の意味で、貴人がいる宮廷に奉仕する近侍という意味です。これはかなり重要ですが、知られていない知識でしょう。
2019-10-12 15:08:47ただし、前漢の司馬遷・石顕は腐刑を受けているので、宦官と言っても去勢した男性であることは間違いありません。とすると、前漢(正確には新代)までは「閹」、「腐刑」、「宮刑」、「蚕室」、「自宮」、「寺人」などという言葉で判断するのがいいということでしょう。
2019-10-12 15:11:00根拠資料についての紹介
まず、趙高が趙の王族で秦王朝への復讐を考えていた説の発端となったと思われる論文です。上記で述べた「隠宮」についても当時の解釈がなされていますので、あわせてお読みになると、理解が深まります。
2019-10-12 15:11:47宮崎市定「史記李斯列傳を讀む」 repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstre…
2019-10-12 15:12:18「皇帝の側近として仕える官吏は、一般の官吏とは一線が引かれていた。宦者と呼ばれて宦籍に登録されていたのである。皇帝に宦(つか)えることに、本来は去勢された男子の意味はない。(続く)
2019-10-12 15:14:11後漢以降、宦者にはいわゆる去勢された男子がもっぱらあてられたが、始皇帝の時代は一般の男子も皇帝の側近であれば宦者と言われた。唐代の人びとは趙高を去勢された宦官と断定したが、秦漢の史料にはそういうものはない。宦官の政治的弊害が大きかった唐代であったからこその見方であった。」
2019-10-12 15:14:30項羽と劉邦の時代 秦漢帝国興亡史 (講談社選書メチエ) 藤田勝久 amazon.co.jp/dp/B011QIHSBS/…
2019-10-12 15:15:56「趙高という人物は、『史記』蒙恬列伝の簡単な伝記によると、秦に滅ぼされた趙の王室につらなる一族であった。そこでは兄弟たちとともに、宦官の家系である「隠宮」に生まれ、母も刑罰を受けたために、代々卑賤な身分であったことになっている。(続く)
2019-10-12 15:16:21しかし里耶秦簡などの新資料によって、秦代において「隠官」という身分のあったことがわかるようになった。隠官とは、刑罰をうけたあと官府にいる者たちのようで、徒隷と一緒に労役にかりだされている。(続く)
2019-10-12 15:16:39始皇帝の三五(前二一二)年には「隠宮と徒刑の者」七十余万人を分けて、阿房宮と酈山を造営していたが、これも隠宮ではなく、「隠官」の労働とする説がよいであろう、とすれば李開元氏が推測するように、かれ(趙高)は必ずして宦官ではなく、(続く)
2019-10-12 15:16:58なお、里耶秦簡のwikipedia項目もありますので簡略ですが参考にしてください。 ja.wikipedia.org/wiki/%e9%87%8c…
2019-10-12 15:18:32また、後漢書の官者列伝には前述した通り、「中興之初,宦官悉用閹人,不復雜調它士」という記述があります。
2019-10-12 15:21:24宦官という用語について