25年前の釧路の炭鉱風景について 参考文献「石炭の語る日本の近代」 閉山直後の空知炭鉱、夕張石炭博物館と太平洋炭鉱の探索 当時の現役炭鉱は太平洋と三池と池島のみだった
2019-10-25 20:51:36閉山半年にして市街地は寂れ始めていた 閉山措置中の空知炭鉱の見学 再就職窓口での炭労資料の閲覧 600人中100人しか地元に斡旋できない
2019-10-25 20:54:35当時の太平洋炭鉱では全国の30%を産出し、最新の機械化を導入していた 日本最長の7kmの人車斜坑が完成していた 当時1t16000円だったが12000円まで効率化して日本最後の炭鉱になることを目指していた
2019-10-25 21:01:20夕張石炭博物館て青木館長に案内してもらい、帰りのバスの運転手が仕事終わりに大夕張を案内してもらう 整備前の南大夕張駅
2019-10-25 21:04:43炭鉱のスクラップアンドビルドの過程を見ていると、効率化の果てにそれ以上に時代が変化してしまい、閉山に至ることに悲哀を感じます。ビルド鉱は優劣はあるもののそれぞれよく考えられた計画だったと思います。
2019-10-25 19:42:38常磐炭田のマチ内郷マップ作りについて いわき市役者OBとカメラマンの2人によるマップ作りの経緯解説 いわきは明治以降、漁業と炭鉱の街として栄えた 原発の影響はほとんど魚にはなかったが、国の半分の50ベクレルの出荷基準を県独自で設けた 風評被害で魚も野菜も売れなかった TOKIOは頑張ってくれた
2019-10-25 21:16:40阿武隈山地の話から先の大洪水の解説 山と段丘と平野が並ぶ地形、中腹で石炭が発見された 露呈してるのは第1層で薄いが第二層以下は2mくらいの炭丈がある 内郷駅は今は小さな駅だが往時は8本もの石炭専用線が並んでいた ズリ山も1つ残っている
2019-10-25 21:21:54炭鉱には社宅や映画館もあるのが1パッケージで炭鉱部落と呼ばれていた(東北では部落は普通に使われる言葉) 炭鉱マップは専用線ごとにページを分け、炭鉱を知らないメンバーが取材して進めた 現地には地図と合わせた番号板とQRコードを貼ってある(ただし電波が弱い)
2019-10-25 21:26:56いわきには炭鉱由来の総合病院が2つある 国策の相互病院計画がポシャってGHQ指導により設立が進められた 医療機関やグルメスポットなど情報をまとめた 紙媒体では情報更新が難しく配布場所でしか見られないので、パンフレットからQRコードでアクセスしてもらい更新性とアクセス性を高める
2019-10-25 21:32:07なな爺さんが説明してるのはうちごうまちあるきMAPかな。関係者や関係施設にはQRコードつきのフライヤー配ってるけど、検索してもまだ上位にこないので、これからだと思う。デザイナーさんは東京でデザインやってたかやってるひとらしく、サイトのデザイン、さすがだなぁ、と。田舎感覚ではないから。
2019-10-25 21:23:36炭鉱とうたごえ運動家について うたごえ運動は三池闘争の敗北後、急速に活動が停滞し反戦フォークソングブームとも対峙して、共産党系列からの大分裂へとつながっていった 佐藤広志は太平洋炭鉱のレッドパージ対象だったが奥さんが社会党系だったため助かった 荒木栄(「がんばろう」などの作者)と並ぶ
2019-10-25 22:07:32←三羽烏の1人とされる 荒木栄から三池での合唱会を熱望されていたが急に活動から離れて、太平洋炭鉱の合唱会自体も衰退 岡林信康らが反戦フォークソングを資本主義と批判して時代と乖離する 共産党系と社会党系が分裂して佐藤広志の名前は忘れ去られていった 荒木栄以外の活躍者は研究が進んでいない
2019-10-25 22:13:59浦幌炭鉱に関する町立博物館の取り組みについて 浦幌は十勝から線路が伸びてきた始めての場所 線路工事で遺跡が発掘された古代のものが主な収蔵物 面積の7割が山林のためQRコードによる現地案内が使えない
2019-10-25 22:19:22浦幌軽便鉄道の認可もあり炭礦鉄道への変更も認可されたが、大正時代の建設中に何度も鉄橋が流されて、関東大震災で図面も焼失し再申請となり建設を断念 山の反対側の尺別炭鉱から石炭を出荷した 植民軌道の敷設予定もあったが結果1つ残らず敷設されなかった 戦後の再開後すぐ昭和29年に閉山となった
2019-10-25 22:23:45炭鉱跡は積極的に植林を進めたため遺構はほとんど残っていない トレイルランニングコースを設定して現地に当時の写真入り解説板を設置した 坑口2つと連絡隧道は見学できる 炭鉱遺産の活用は行政は乗り気ではなかったが元住民たちが中心になり、羆も多いので大人数で行くようになった
2019-10-25 22:27:06炭鉱当時の人は町内からいなくなってしまったが、当時を知る人たちや資料は残されており、知らないうちに解体や処分される危機感もあり炭鉱の認知を高めて記憶や遺構を博物館に集めたい 浦幌は根室本線の空気輸送区間なので、鉄道利用の活性化にも活かしたい
2019-10-25 22:31:05炭鉱保安の拠点、直方について 直方には三菱も三井も進出していたが戦前で撤退し、戦後は中小炭鉱がメインで閉山も早かった 炭鉱機械のメンテナンスの鉄工所が今でも多く残っている 筑豊炭鉱遺跡群に認定され田川の石炭博物館と連携して整備中 昔の筑豊の北部は今はあまり筑豊と呼ばなくなった(北九州)
2019-10-25 22:36:48筑豊の石炭は直方に集めてから遠賀川で港に運んだ、炭鉱の資材も逆のルートを辿った 財閥系の炭鉱も含めた筑豊石炭工業組合は若松港にあったが、港まで行くのは大変なので直方に作られた 明治13年に国産初の機械排水が完成した(長崎の高島炭鉱は西洋式でグラバー氏が隠していた)
2019-10-25 22:42:05明治中頃に深さ300m級の立坑が作られ始め、それに伴う大規模な炭鉱災害も増えた 大規模火災の消火活動で酸素マスクが有効視され、若松ではなく炭鉱に近い直方に組合の貸出物として保管することになった 直方の救護練習場の先駆けとなった
2019-10-25 22:47:50日本最古の救護マスクは直方と東京大学に1つずつ保管されている 救護マスクの定期試験のため東洋で初めての模擬坑道を設置、増築されて現在の救護模擬坑道になった 大正初期に合わせて千人を超える事故が起こり、救護隊の設置が義務付けられる 日鉄二瀬などは自前で施設を作った今も地下に残ってるはず
2019-10-25 22:59:05直方の坑道は大正9年のRC造とレンガで作られてある 雄別にはさらに新しい模擬坑道がある 九州の炭鉱閉山が続いて直方の模擬坑道は老朽化のため糟屋町に立て直したが、2001年の池島炭鉱閉山で閉鎖された 岩見沢やいわきの内郷にも模擬坑道が作られたが現存しない 韓国の炭鉱には同じものが作られている
2019-10-25 23:03:43