西兼志『〈顔〉のメディア論』読書メモ集
- arishima_takeo
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「スピッツは、授乳を行っている母子の様子の観察から、乳児にとっての第一の対象は乳房ではなく、〈顔〉なのだと結論づける」(西兼志『顔のメディア論』)。乳吸ってるときは顔を見るから。
2019-11-15 06:20:14弁論術は、この空間において弁論家がみずからの現れ、特に〈顔〉を意のままにすることで、聴衆を意のままにする術を教示するものだったのだ。それは、眼前の他者の表情を解釈したり、その人物を同定するのではなく、他者を統御すべく、みずからを統御する〈顔〉の学である。by西兼志『顔のメディア論』
2019-11-16 12:55:17中世を通じて弁論術は、文法、そして、弁証法に対して後退していく。この後退を別のかたちで証しているのが、弁論術を受け継ぐ「礼儀作法(civilite)の教育である。それは「現れ」が、公領域ではなく、私領域の領分となったことを表すものである。by西兼志『顔のメディア論』
2019-11-16 13:10:04ビュフォンは、外見から、魂の動き、その一時的で移ろいやすい状態を把握しようとする情念学を受け入れる一方で、メトポスコピーのような占星術的な観相学や、外見から人となりが分かるとする観相学は否定しているわけである。by西兼志『顔のメディア論』
2019-11-17 08:33:59「シルエットは、写真の先駆者に位置づけられるメディアのひとつである。人物の横顔を黒色の光沢紙から切り出すこの技術は十八世紀の中頃から職業的に実践されていた。その名称は、当時のフランスの財務長官、エティエンヌ・ド・シルエットに由来するとされている」(西兼志『顔のメディア論)。へぇー
2019-11-17 10:38:50〈顔〉の行方に注目しながらメディアの変遷を概観するバラージュは、映画のもっとも固有な領域はクローズ・アップであり、そこにこそ「この新しい芸術の新大陸が開けている」と断言する。by西兼志『顔のメディア論』
2019-11-17 11:11:41「映画界はアウラの消滅に対抗するために、スタジオのそとで人為的に〈パーソナリティ〉をつくりあげ、映画資本を動員してスター崇拝をおしすすめる」(ベンヤミン)。へぇー、こんなこと言ってたんだな。
2019-11-17 12:11:09文化産業諭は、その核心において、ひとつのスター論なのである。文化産業は、スターを介して、そしてそれゆえ、外からではなく内から力を行使するのだ。by西兼志『顔のメディア論』
2019-11-17 12:12:25「政治的・社会的な事件であろうとスポーツ・イベントであろうと、伝えられる出来事はメディアが存在していなかったならば、まったく違ったかたちで展開していたであろうし、起きることさえなかったと言いうるまでになる」(西兼志『顔のメディア論』)。YouTuberすぎる。
2019-11-17 12:16:18ネオTVが映し出すのは、視聴者と変わるところのない人々である。視聴者たちは、登場する人々に自分の姿を認め、それが自分自身と変わるところがないことを確認する。こうしてなされる自己確認にこそ、視聴者は満足を覚えるようになる。by西兼志『顔のメディア論』
2019-11-17 12:18:02テレビのニュースは、それに先立つラジオやニュース映画とは異なり、伝える者の姿を映し出す。あまりに自明なことだが、ニュースの語りは、その語り手、その〈顔)に「投錨」される。by西兼志『顔のメディア論』
2019-11-17 12:21:24「こうしたデジタル・テクノロジーの発達によって実現する普遍的な監視の体制を、ライアンは、データベースを、デジタル化されたディスクールのアーカイブと捉えるマーク・ポスターの議論を参照して、「スーパーパノプチコン」と呼ぶ」(西兼志『顔のメディア論』)。うん、ちょっと馬鹿っぽいですね。
2019-11-17 12:39:24西兼志『〈顔〉のメディア論』読了。面白かった。鷲田清一とか似たような本書いてなかったっけとか思ったりもしたが。観相学の歴史、映画とテレビ(そしてネオテレビ)の違い、カントの図式論からブルデューのハビトゥス論に行く流れなどが勉強になった。
2019-11-17 13:00:40ああ、あと、相貌失認と相貌情動失認の違いに対応する、人物同定と表情理解の相互に独立した認知メカニズムの存在は非常に重要だと思った。私にとって。
2019-11-17 13:03:40