- arishima_takeo
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「かなり古典的にも見える彼の哲学の形式性へのこだわりには彼の思考のハビトゥスとでも言うべき、知的来歴が隠されていると思われる。その原点にあるのが、新カント派の存在である」(宮野真生子『出逢いのあわい』)。へぇー。
2019-11-21 08:55:01「管見によれば、九鬼の偶然に関する論考においてヴィンデルバントが言及されることはない。ただし九鬼がヴィンデルバントの著作をほとんど読んでいることは、九鬼の蔵書リストから確認でき、「偶然論」に関しての読書ノートも残っている」(宮野真生子『出逢いのあわい』)。これは大きいな。
2019-11-21 08:58:46「結果的にヴィンデルバントが選ぶのは、分裂した普遍と特殊の関係を形而上学的に問うのではなく、その分裂に忠実な形で別個の学問的方法を選び、それによって個別を守ることであった」(宮野真生子『出逢いのあわい』)。理不尽な進化感。
2019-11-21 09:00:42「ヴィンデルバントが、偶然と必然を水平的で両立不可能な関係と捉えることで、各次元を分断してしまったのに対し、九鬼は垂直の二項対立によって各次元を繋げていく」(宮野真生子『出逢いのあわい』)。それな。
2019-11-21 09:02:13『出逢いのあわい』。新体系で、「誰」を仮面の破れとして描いたのは、破れが生じるためには意味の面(「何」)が張られていなければならず、それは偶然論に直すと、予期しない偶然の感受とは可変的な意味の体系によって逆説的に支えられているということだった。
2019-11-21 16:05:27私はここから体系vs偶然の構図には行かず、体系内的偶然の処理機構の方に行った。この見地からいうと、仮説的偶然論から離接的偶然論に跳ぶ九鬼は偶然の経験性を無視して形而上学の世界に逃げてしまっているように見える。
2019-11-21 16:11:45が、宮野によれば、似たようなことは九鬼はハイデガーの根源的不安の議論にも感じていたはずで、偶然論の「無」に本来的も非本来的もねーだろ、と。「根源」に遡ることでなにかが失われてしまう問題。
2019-11-21 16:15:04九鬼は様々な面でハイデガーから影響を受けているのが、もっとも大きかったのは、無と存在の関係を問うことを形而上学と呼び、それを不安という現存在の生のただ中において掴もうとしたことだったと私は考える。by宮野真生子『出逢いのあわい』
2019-11-21 18:58:29「第二に、偶然性を「推移」や「転歩」といった運動を含む言葉で表現しようとしている」(宮野真生子『出逢いのあわい』)。「転歩」ってテンポとかけてるんだろうか。いずれにせよ、いい言葉だね。今度使おうかな。
2019-11-21 19:01:25「日ではない」(「乙ではない」)ことは、「日影である」(「非乙である」)ことを意味するが、「日影」とは単に日がないことではなく、暗闇や涼しさといった独自の意味をもっている。つまり、それ自体すでに別の現象(丙である)なのである。by宮野真生子『出逢いのあわい』
2019-11-21 19:05:30「問題は、ハイデガーが「……の傍らにある」ことを「頽落」とのみ捉え「出会いの今」として開示しない点にあると九鬼は言う」(宮野真生子『出逢いのあわい』)。なるほど。
2019-11-21 19:09:22「もちろん、あらゆる現実、存在者との関わりが出会いだが、多くの人はその出会いに気づかない」(宮野真生子『出逢いのあわい』)。そう、『仮説的偶然文学論』で考えたのは、「人」は変わり得るし、それに呼応して「出会いに気づ」くようにもなる、ということだった。
2019-11-21 19:11:57「出会いのときにさえ遡ることのできないもの、それが私の身体である」(宮野真生子『出逢いのあわい』241p)。そうそう、そうなんだよ!
2019-11-22 06:27:07『出逢いのあわい』。引用文献リストに有島武郎『惜みなく愛は奪ふ』があるけど、まだ本文で確認できてない。「白樺派」が出てきたのは見た。…見落としたかな?
2019-11-22 06:43:37『出逢いのあわい』。後悔とは可能性を発掘することでもある。未来の可能性と過去の可能性はなにが違うのか。事前の視点と事後の視点、事後の視点から未来人を考えること。
2019-11-22 07:19:29『出逢いのあわい』282p。ここ新体系とも交差する。他方、宮野に従えば、九鬼は「である」の離接肢(ペルソナの交換可能性)から「がある」の離接肢(実存の交換可能性)に短絡させているようにみえるが本当に可能なのか。
2019-11-22 10:31:52「である」からしか実存に接近できないのはたぶん本当。でも、往々にして人は「である」の迷宮のなかに迷い込み自身のユニークネスを置き去りにする(私は在野研究者である…が、在野研究者はほかにも)。迷わないためにはどうしたらいいか。虚構的なゼロ度の実存を想定しなくてはならない…のでは?
2019-11-22 10:41:51『出逢いのあわい』読んでて気づいたけど、私は偶然性を「無」の問題(ないこともありえた)として考えたいのではなく、偏り、すなわち「角度」の問題として捉えたいんだなと思った。そこにおいて無とは度の動性を約束する可動域、バッファのようなものになる。
2019-11-22 10:56:35