歴史系雑語り・南部但馬守信長と京都南部氏
- kotosakikotoko
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南部但馬守に関する(かもしれない)史料と超雑(というか穴だらけの)考察 南部但馬守。この人物はどうも謎の人物で、複数の史料に顔を出す割にその出自や系譜がよく分からない人物で戸惑うのよね。
2019-11-26 10:23:00南部但馬守信長 都会生活を満喫する iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-611… 南部信長さん、なんだかんだで京都生活楽しんでるよね。
2019-11-25 14:47:54まず史料として、八戸氏に残る七戸氏宛て南部但馬守信長書状というのがあり、彼の京都での生活が書かれている。遠藤巌先生が『梶井殿様』『信虎』(武田信虎)などのワードから、永禄7年頃という年代比定を出しており、現在これがほぼ支持されている。
2019-11-26 10:23:00しかし、例えば同じ八戸氏の系図(源氏南部八戸家系等)における南部但馬守信長、は康正~明応頃に活動した政経の次の当主として位置付けられており、永禄とは半世紀以上年代がかけ離れており、永禄の南部但馬守信長は八戸南部当主とは考えられない。
2019-11-26 10:23:00書状が七戸氏に向けて出されていること、また足弱たちを七戸に預けていることから、八戸もしくは七戸の係累である事は確かであるといえるけれども、それ以上の事は何とも言えない。
2019-11-26 10:23:01康正年間の蠣崎蔵人の乱において、八戸氏家臣の七戸孫市(七戸氏の庶流か)が但馬守を受領しているけれども、これも永禄の但馬守に繋がるかどうかは不明。この家は八戸氏の近世記録では断絶している。
2019-11-26 10:23:01現久慈市蛭子神社の文明13年棟札には『大檀那南部信濃守嫡之右京助久信』、元亀2年棟札には『源朝臣南部内信濃守信長 元亀弐年辛未四月八日』とある。これが官名を変えた南部但馬守なのではないか、とも考えられているけどやはり確証はない。 jmapps.ne.jp/kitasanriku/de…
2019-11-26 10:23:01他地域の同時期の史料になると、言継卿記には永禄12年3月15日条に『南部但馬守』の名前が出てくる。その前日には『津軽之南部弥左衛門』なる人物が登場している。
2019-11-26 10:23:01この南部弥左衛門が安東家臣・南部宮内小輔季賢と同一人物もしくは兄弟であるとする説が主流だが、黒嶋敏先生は言継卿記の前後を読むとその解釈は成立しづらく、両者が親しい関係にあると考えられ、また山科言継の所領問題に関わっている事を指摘している。
2019-11-26 10:23:01一方京都方面では、文明13年から永正元年にかけて蜷川親元日記・蔭涼軒日録・後法興院記等に『南部右京亮』『南部左京進』『南部左京亮』などの人物名が出てくる。いずれも細川典厩家の被官として登場しており、岩城大介氏は彼らを『京都南部氏』として紹介している。
2019-11-26 10:23:01更に大永4年の細川右馬頭亭御成記では『南部但馬入道』『南部与介』、大永5年の実隆公記では『南部入道』『南部但馬入道』の名前が出てきており、また天文5年にも鹿苑日録に『南部但馬入道』の名が見られる。
2019-11-26 10:23:02・参考諸家系図では八戸政経の嫡男を南部但馬守信長とする(通説) ・京都南部氏を紹介した岩城大介氏は新撰菟玖波集(明応4(1495)年成立)に出てくる『奥州南部経行』、細川右馬頭亭御成記の大永4(1524)年3月6日項に出てくる『南部但馬入道』を年代的に八戸政経嫡男と推定。
2013-12-11 01:38:35・岩城説では仮系図として政経―経行―但馬守子某―南部但馬守信長―新田盛政娘とする。 ・岩城説では経行の弟に南部国行(永正元(1504)年・細川政賢奉行人)を置き、これを京都南部氏の祖とする。 ・吉井功兒先生は、国行を但馬守子某の弟、とする可能性も指摘。
2013-12-11 01:52:23・他に史料で出てくる南部右京亮・南部左京進・南部左京亮・南部与介の出自については不明。 ・吉井説では永禄年間の南部但馬守信長を、南部氏の在京目代と推測。 ・文明10(1478)年に南部右京亮が『一跡を与奪』したとあり、八戸南部氏の在京外交権を与奪したとの意味か? と疑問を提示。
2013-12-11 02:10:42大徳寺文書では、文亀3年7月20日付の書状において、南部右京亮は国行と署名しており、同年7月26日付機藤近江守盛景書状では、南部左京亮を国行と比定している。真珠庵文書では、宗壽(南部左京)が明応2年と永正7年にそれぞれ1貫文を寄進している。大永頃に出てくる南部七郎は秀行と比定されている。
2019-11-26 10:23:02実隆公記では『南部ゝ-、入道子也 為使執之』という記述があり、以上の史料から推察して、実隆公記の『入道子』が南部七郎秀行であり、南部但馬入道は国行の隠居後の名だと考えて差支えないと考える。
2019-11-26 10:23:02この『京都南部氏』と永禄頃の南部但馬守が繋がるか、という話なのだけれども、仮に蛭子神社棟札の南部信濃守信長が永禄7年の書状にみえる南部但馬守と同一人物であるなら、文明13年棟札の南部右京助久信も陸奥南部但馬守の係累という事になる。
2019-11-26 10:23:02が、そうなった場合に陸奥南部但馬守と京都南部氏をイコールで繋いでしまうと、文明13年5月に細川右馬頭の被官として現れる『南部右京亮』が=右京助久信、という解釈が一番自然になる、が棟札を収めたわずか2か月後に京都で細川氏の被官『南部右京亮』として活動した事になってしまい、大分不自然。
2019-11-26 10:23:03蛭子神社の棟札に出てくる実名は京都南部氏とは諱の字が共通しておらず、上記の仮定(陸奥の右京助久信=京都の南部右京亮)が成立しない場合でも陸奥の南部但馬守が活動した時代と京都の南部但馬守が活動した時代は重ならず、共通性が認められない。
2019-11-26 10:23:03個人的結論としては ・文明~天文にかけて京都で活動していた細川典厩家被官『京都南部氏』と、永禄~元亀頃に名前が見える南部但馬守は、共通性が薄いため無関係 ・言継卿記の南部但馬守は北奥羽との繋がりが指摘されており、永禄7年書状の南部但馬守と同一人物の可能性が高い くらいかしら。
2019-11-26 10:23:04あともうひとつ、林秀貞が『南部但馬』を名乗ったとされているそうなんだけど、京都南部氏が存在していたなら、林秀貞が細川典厩家の家臣である南部家の家督を何らかの事情で相続した、と妄想できるなこれなら(このへん本当に完璧妄想よ)
2013-05-22 14:52:06いずれ、細川典厩家に使えた南部氏は、広く南部氏が通字とした『行』を使っており、南部氏の一族である、というのは間違いないと考えていいし、また若狭にも南部家行・膳行の系統がおり、これとの関係性も考えてみてもいいと思うけどいかんせん史料がない。
2020-02-17 00:22:11