寛容・コミュニケーション・公共について。

寛容とコミュニケーションそして公共性がどのように構築されるべきであるのかについての会話を纏めてみました。
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馬の眼🐴 @ishtarist

人を変えようと思うと人は変わらない。自分を変えよう、相手は変わらなくて良いと思うと人は変わる。不思議なものだ。

2011-06-13 01:19:09
馬の眼🐴 @ishtarist

でも、もちろん、他人を変えるために自分を変えようとするなんて、それ自体ばかげているけど。

2011-06-13 01:23:31
馬の眼🐴 @ishtarist

他人を変えようとすることをやめること、そこからしか何も始まらない。でも、それは、相手が変わらないとあきらめることでもない。

2011-06-13 01:24:54
馬の眼🐴 @ishtarist

脱構築というスキルを、コミュニケーションレベルで考え直してみる必要があるかもしれない。無になること。

2011-06-13 02:05:34
ととじゅに @totojuni_s

然しこれで、他人を言葉で変えたり把握しようとしたりする所作からは本気で離脱することになりそう。代わりに、「自己の自己性」を虚しくすることで、実践的な立ち回りを可能にすることに腐心しよう。この辺りの脱構築的技法は@ishtaristさんと共に考えてみたい。

2011-06-13 02:23:10
馬の眼🐴 @ishtarist

暴力や争いをわずかでも低減させるために、「正しさ」よりも寛容の方がずっと大切だと僕は思うけれど、寛容というのはそんなに簡単なことではない。それは、自分の身体の中に痛みを抱えつづけることだ。それを他人に伝えようとする僕は、他人に傷ついてくれと言っていることになる。

2011-06-13 06:18:01
馬の眼🐴 @ishtarist

たぶん、こういうことは、伝えるべき相手を選んで伝えるしかないことなのだろう。道徳としては、たしかに、あまりにも厳しすぎる。

2011-06-13 06:19:20
馬の眼🐴 @ishtarist

でも一方で、寛容のない正義によって、暴力も、そして痛みも、拡大再生産されてしまうというのも事実である。いや、だからこそ、寛容とはどういうことなのか、自分の身をもって示し続けるしかないのだろう。

2011-06-13 06:25:11
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka

RT @sunafukin99: 「○○は甘え」という万能語にみんな振り回されすぎ。

2011-06-13 11:24:14
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka

「○○は甘え」という語法は結局、それ故に「自粛しなさい」という意味でしかほとんど使われない。なので私は」この用語をほぼ同意味だと考えている。またこの語法が成り立つ前提は個人Aが個人Bにたいして何らかの権威を持っている場合に使用されることが多いので権威主義的に聞こえる場合が多い。

2011-06-13 11:29:12
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka

コミュニケーション行為は、発話の相互性とルールあるいは前提へ双方の自由意思による明白な合意がなされなければ成り立たない、ましてや片方がそのルールを拒否しているならば。それがなされずに会話らしきものが成立しているように見えるとすればそこには何らかの権威や権力構造があると考えられる。

2011-06-13 13:02:51
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka

RT @ishtarist: でも一方で、寛容のない正義によって、暴力も、そして痛みも、拡大再生産されてしまうというのも事実である。いや、だからこそ、寛容とはどういうことなのか、自分の身をもって示し続けるしかないのだろう。

2011-06-13 13:29:20
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka

寛容の最低条件は個人間での相互性、公正性が保障されていること。それがなければ寛容という名の暴力になってしまうこともあり得るなぜなら赦しを許可するという行為の非対称性が含まれるから、相互が相互に許しあうことによって非対称性を解消するしかない。

2011-06-13 13:38:43
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka

しかし相互の寛容が開かれた公共空間において行われるのが好ましい。そうでなければ何らかのコミュニテイ内部の間だけで”寛容の交換”が完結してしまい、むしろコミュニテイ外部には敵愾心を持つということもあり得るからだ、その具体例がナショナリズム。

2011-06-13 13:41:34
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka

だからこそ新しい公共が提唱されている。ナショナリズムという幻想の共同体内部での寛容の交換を克服するために。そのためには公共空間への参加離脱の自由、自分の信じない価値を信じなくてもよい権利の保障、参加者の相互性が必要。その相互性確保のためには先天的な不平等是正措置が必要。

2011-06-13 13:45:59
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka

つまり、コミュニケーション行為にはそもそも成立不可能性が内在している、しかし、参加の為の条件を整えることで、多くの個人が公共空間でのコミュニケーションに自発的に参加するような仕組みを構築することが大切。日本の選挙の投票率を見てみるとその仕組みに問題があるということがわかる。

2011-06-13 13:48:18
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka

そう、寛容も自由意思で行われることが大切。参加の相互性というのは当然発言機会の平等を含む。それが守られない対話は会話ではない、単純に会話の名を語る暴力。

2011-06-13 13:58:33
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka

寛容が自発的に形成されない空間に無理やり参加する必要もないし、会話が成立しないと思ったらそれを拒否する自由もある、そしてそのような会話に参加しない自由や、議論や会話の不可能性を尊重しながらも自発的に公共空間が形成されれば理想的と思える。

2011-06-13 14:00:41
イェイ!イェイ!団 @yayyaydan

@yutakioka 寛容は相手に用意されるもの?拒絶は自発的?きついね。

2011-06-13 14:14:19
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka

どちらも自発的であるべきですよね、用意されるべきものではなくて。ただその自由権の行使は保障されていなければいけないと思います。RT  @yayyaydan 寛容は相手に用意されるもの?拒絶は自発的?きついね。

2011-06-13 14:17:56
瀧岡 優 (Yu Takioka) @ytakioka

RT @sturok: 対立や喧嘩は、互いに相手を自分たちの都合のよう様に解釈し、変化させようとしているから。世の中が変化しているときは、往々にしてそういう圧力が働き、均衡点が変わっていく。これを最大限解釈した端っこ方が暴力による改革だと。あまりに非現実的なので却下して良いはず。大局でかならず失敗する。

2011-06-13 14:25:09