伊勢田哲治「科学的合理性と二つの「社会」概念」におけるエスノメソドロジー研究の位置:その2
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科学の合理性というトピックに引きつけてリンチの議論を位置づけるなら、それは「合理性」のありかを、科学についての哲学的議論から、科学者がおこなう諸実践のうちへと差し戻そうとする試みだと言えるかと思います。 @tiseda @contractio
2011-06-14 18:40:46それゆえ、「合理主義的科学観 vs. 対案」という伊勢田さんの問題設定が、「発見とは何か」といった問いへの理論的応答をめぐるものであるなら、リンチの議論は端的にそこには乗らないでしょう。 @tiseda @contractio
2011-06-14 18:41:47これは、たとえばストロング・プログラムがはっきりとその問いのもとで「対案」を出しているのと対照的だと思います。 @tiseda @contractio
2011-06-14 18:42:24「あなたが挙げる観察やら記述やら測定やらの「ばらばら」の事例は合理主義の観点から全部統一的に説明できます」と言われたら、EM者は反論するのでも「興味ない」と言うのでもなく、その「説明」の実践的合理性を記述しようとするのではないでしょうか。 @tiseda @contractio
2011-06-14 18:57:07いずれにしても、合理主義やそれへの対案とリンチの立場とが「対立するかどうか」に対して、一般的な形で答えることは難しいでしょう。リンチからすれば、それは科学者のそのつどの実践に備わった合理性に照らしてしか判断できないということになるのでは。 @tiseda @contractio
2011-06-14 19:04:07戸田山論文に書かれていること以上になにか論点を加えた気はしませんが、とりあえず以上で。 @tiseda @contractio
2011-06-14 19:05:38どうもどうも。 “@frroots: 時間がないので簡単に。 RT contractio: これの評価はまかせた。>frroots RT @tiseda: というくらいの読解が間違っていないかどうか”
2011-06-14 21:13:51@tiseda うーん。「Q:リンチは懐疑論や認識論的問題設定を行うのはなぜか」という問いに対して、「A:それらにトラップされると出来ない経験的な研究があるからだ」は十分な答になっていると思うのです。 @frroots
2011-06-14 23:02:37訂正:「Q:リンチは懐疑論や認識論的問題設定を行うのはなぜか」 →「Q:リンチが懐疑論や認識論的問題設定の検討を行うのはなぜか」 https://t.co/0kaZJ071
2012-03-21 19:59:36@tiseda 「十分な」というのは、「リンチは合理主義的科学観批判という動機を持っているか否か」を云々しなくても、その手前で十分に その正しさを検討できるという意味で、です。・・・が、伊勢田さんは、私のこの見解には賛成できないでしょうか。 @frroots
2011-06-14 23:04:02@tiseda あと、ここで「ついでに」聞いてよい質問なのか微妙ですが、今後の議論を大きく左右しそうなことなので、ここで確認してみるのですけども。 @frroots
2011-06-14 23:05:12@tiseda 「合理主義的な科学観」というのは、科学者の通常の仕事に必要なものではない──そうではなくて、これにもっぱら関心をもつのは科学論者である──というように私には思われるのですが、私のこの見解には賛成できますか? @frroots
2011-06-14 23:05:39@tiseda つまり、一方で、1)たとえば科学者は、自分たちの仕事を「合理的に」進めることには関心を持っているでしょう。しかし「合理主義的に」すすめることには関心を持っていませんよね。 @frroots
2011-06-14 23:06:48@tiseda ところで、そうだとしたらしかし「合理主義的科学観」なるものは、科学者たちの仕事と どういう関係をもち・科学者たちの仕事にとって どういう意味があるのかが気になります。つまり、 @frroots
2011-06-14 23:07:59@tiseda 2)私としても「合理主義的な科学観」が、科学者たち自身にとってまったく問題になることない、などとは思いませんが、ただ、それが彼/女たちの通常業務とはあまり関係ない以上、 @frroots
2011-06-14 23:10:03@tiseda 「科学者の仕事とはどんなものか」が話題になっているときに「合理主義的な科学観」を持ち出す人には、同時に「合理主義的な科学観は、いったい「いつ」──科学「論」ではなく──科学の問題となりうるのか」ということも併せて話題にしてほしい、とは思います。 @frroots
2011-06-14 23:10:57@tiseda 投げっぱなしなのもアレなので、この件に関して私の経験と見聞の範囲で思いつくことを書いておくと、私の言いたいことがもう一歩明確にできるかもしれません。 @frroots
2011-06-14 23:11:21@tiseda 科学者たちが、「科学の合理性」を、科学を主語にして話題にする──という例外的な──事態が登場しうる状況として、 1)学会の懇親会。 2)科学者ではない人達に対して、科学についてのなんらかの呈示(ex. 宣伝、防衛)をする必要がある場合。 @frroots
2011-06-14 23:14:22@tiseda 3)教員が学生に対して指導をする場合。 4)通常業務を超えて対処しなければならない問題(ex.不祥事)が生じた場合。 などが、私には思いつきます。[この項ここまで] @frroots
2011-06-14 23:14:49@frroots @contractio もちろんエスノメソドロジストが一般的な理論的応答をするはずはないですが、特定の理論に対して否定的反応をすることは排除されていないだろうと思っています。>「発見とは何か」といった問いへの理論的応答をめぐるものであるなら
2011-06-14 23:24:57@frroots @contractio なるほど。これはEMらしい反応ですね。そういう反応をするとき、合理主義者よりもより基本的で本質的な社会プロセスのレベルを扱っているという意識はEM側にはないのでしょうか?
2011-06-14 23:30:35@frroots @contractio それは、照らしてみた結果対立するという結論がでることもあるということでしょうか?どういう場合を想定していますか? >科学者のそのつどの実践に備わった合理性に照らしてしか判断できない
2011-06-14 23:39:55そうですね。そしてEM者が「否定的反応」を示しているのは、圧倒的に懐疑主義に対してであるというのは示唆的ではないですか。 QT @tiseda: frroots @contractio *特定の理論に対して否定的反応をすることは排除されていないだろうと思っています。るなら
2011-06-15 01:52:01ないと思いますよ~。「合理的である」ことは実践と切り離して理解できない、と言うことは必ずしも合理性の中身への疑義ではないですし。 QT @tiseda: frroots @contractio *合理主義者よりもより基本的で本質的な社会プロセスのレベルを扱っているという意識*
2011-06-15 02:01:00@contractio @frroots 一応答えになっているとは思いますが。単に経験的研究がしたいのならなぜピッカリングの編集した本でラトゥールやウールガーとならんでSSKの人たちと論争をしているのか。>十分な答になっている
2011-06-14 23:51:57