発端は、ネルケ無方氏の、著書タイトルを思いだせない読者への返答。単に書名を答えただけのはずが、僧侶からの問いかけという形で捉え反応する人続出。
@krmekai 「仏法がある」とか「仏法がない」というときの「仏法」はもはや仏法ではなく、ただの概念レベル(=宗教と同じゲーム)だから。仏法は仏法にあらず。
2020-04-17 19:51:47「日本人に宗教は要らない?」への、halching氏からの返答
@MuhoNoelke 宗教であれなんであれ、凡そそうした“思想”はすべて、独り在る私にとっては大きなお世話で、拠り所にならないものです。必要なのはただ〈私〉の自覚だけ。(それを禅はよく促している、とは言えると思いますが)
2020-04-18 00:20:20“自覚”という言葉に無方氏が反応。宗教要不要の主題を離れ、永井均氏の「独在哲学(山括弧問題)」へと議論が発展していく。ここから議論A。
では、その「自覚」なるものは何か? それもしょせん「邪魔物」でしかないのでは? いや、なくては困るのだが、あってもちょっと・・・ twitter.com/halching1/stat…
2020-04-18 09:56:59@MuhoNoelke @MuhoNoelke それは「自覚」の意味次第かと思います。意識し覚悟するという意味合いでの自覚ならば、それは誰がするのか?という問いとともに邪魔者感がつきまとうでしょう。そうではなく、ただ気づいているという、累進構造の最上段としての具体的な気づき。そういう意味の自覚ではないでしょうか?
2020-04-18 12:44:05@halching1 私はいまだ、その累進構造の最上段がはたしてあるかどうか、どうも納得しきれません。それがあるなら、そこに安住すればいいでしょうが、「今ここ」に気づいているその時、実は今ここから一歩踏み出しているのでは? 「最上段」をさらに上から見ているのでは?(続く)
2020-04-18 13:24:42@halching1 → それなら、むしろ「気づいている」という、それ自体を手放した時にこそはじめて今ここにいれる。ただ、それに気づいていなければ、それもしょうがない。気づいていても、気づいているはずのことからずれてしまい、気づいていなければ、何にも始まらない、というジレンマ。
2020-04-18 13:27:33@MuhoNoelke 累進構造という捉え方が、そもそもただひとつしかない(はずの)事実を相対化することですよね?〈私〉の《私》化とも言えるかと。相対化する視点がなければ最初からただ開闢のみが在ります。それはとても具体的な事実として今ここに在りませんか?
2020-04-18 14:57:41@MuhoNoelke “気づいている”ことを“気づいている”と認識できるのは、気づきそのものがそこに在ることとはまた別の問題かと思います
2020-04-18 14:59:36“自覚” “気づき”についての応答のあとのhalching氏の独白。
なるほど、永井先生がご自身と一照さんを超越論的、山下良道さんと無方さんを超越的とおっしゃる意味が理解できた。おふたりとも、開闢の原点の外側に超越的視点を想定されるのだ。必ずしもおふたりの主張が一致しているとは思わないのだが、超越的であるという意味では同じだ
2020-04-19 11:12:12halching氏の論点は、①「開闢の原点」を気づきそのものととらえる立場。一方、無方氏は②「開闢の原点」が開闢していることに気づくためには、気づきそのものを眺める視点が不可欠ではないかとする立場。単純化して言えば、①は超越論的立場で②は超越的立場であり、これが「哲学する仏教」のあとがきで永井均氏が書かれたことに重なるとhalching氏は指摘する。
その独白に対して、無方氏が持論を展開。
@halching1 良道さんは代弁できませんが、私に言わせればこうです: 開闢の原点の外側には、本来何も存在しない(他者のその開闢の原点も存在しない)。では、その「開闢の原点」という言葉は何を指しているのか? その「開闢の原点」にだれが気づいているのか? その気づきの場とは?(続く)
2020-04-19 11:26:04@halching1 「開闢の原点」という言葉を口にした瞬間、すでにその外側になってしまっているのではないないか(「世界と外側から見る」などという話した瞬間、その話は逆に世界の内側にしかできない)。このジレンマとどう向き合うか。(続く)
2020-04-19 11:29:30@halching1 今ここに気づくことが不可能とまで言わないが、それを「今ここに気づいた」と語る以前、今ここに気づくことと同時に、「気づいた」という事実にも気づく必要がある。しかし、その気づきはその時点ですでに「今ここ」レベルにあって、今ここ(いわば〈今ここ〉)に届いていない。(続く)
2020-04-19 11:32:03@halching1 その気づきは自己矛盾しているのでは? 禅的に言えば、その気づきはなくてはならない気づきであると同時に、あっては困る気づき。その気づきがなければ、ただの凡夫。その気づきがあれば、念の入った凡夫。かく言う私は、念に念の入った凡夫。
2020-04-19 11:37:22@halching1 修正:私は、「世界には、一つの山しか存在していないとしよう」はどうしていえるのか?→私は、「世界には、一つの山しか存在していない」というのはどうしていえるのか?
2020-04-19 11:38:40@MuhoNoelke 一連のご主張、よく理解できます。僕も少し前まで同じように考えていました。以前に、無方さんが永井先生と同様の議論をした際に、やはり永井先生は、開闢の原点としての、累進の最上段の〈私〉にはその先がない、と返されていたようにも記憶しています。(続く)
2020-04-19 16:09:50@MuhoNoelke (承前)永井先生は、その最上段でさえ誰かにとっての《私》であると「言うことができる」とされます。ここがポイントとかと。どんなに最上段の突出を主張しても(〈私〉)、それを平準化し得ますが(《私》化)、それは平準化「し得る」だけであって、やはり現実の突出を捉え損ねています(続く)
2020-04-19 16:20:46