@MuhoNoelke (承前)無方さんの言われるとおり、最上段の場所以外に居場所はなく、そして僕(ら)は現に今そこにいます。しかしこのことを言葉で語ろうとしたとたんに、現実の突出は平準化した形でしか伝わらず、ゆえに最上段でさえ平準化しうるのではないか?という疑問が生じるのではないでしょうか(続く)
2020-04-19 16:24:36halching氏は開闢の原点が累進構造の最上段であることを指摘。無方氏も論理構造には同意しつつも…
@halching1 続きを待たずの、せっかちなリプをごめんなさい。 私が生きている間、いつも累進の最上段にいるはずです。 それはだれについても言えることのはずですが、「だれについても」言ってしまえばすなわち〈私〉→≪私≫という変換が起こってしまうので、それは今ここ言いません(続く)。
2020-04-19 16:19:12@halching1 ようするに、私はいつも累進の最上段のいる。その累進の最上段のほかに、私の居場所はないはずです。ところが、それに気づいている場合と、気づいていない場合の間には天地ほどの差があり、それこそ禅でもマインドフルネスでも問題にされています(続く)。
2020-04-19 16:21:05@halching1 気づいていようが、気づいていまいが、私は累進の最上段にいる。ここ以外に、私はいられない。では、気づいていないのと、気づいているのと、さらに言えば気づいていることに気づいているのと、そのことにもまた気づいていることと、その差は何か?(続く)
2020-04-19 16:23:16@halching1 その差は累進の段差ではないか? ただ単に累進の最上段にいるのと、そのことに気づいているのと、累進の段を一段(二段?)上ったことになりはしませんか?(続く)
2020-04-19 16:26:22@halching1 もちろん、累進の段をいくら上っても、上ったその段がおのずと累進の最上段になるわけです。しかし、「ここは累進の最上段」と気づけば、その気づきの内容が瞬時に「嘘」(A)になりはしませんか?(続く)
2020-04-19 16:29:05@halching1 そして、さらに「ここは累進の最上段」と口に出して他者に発言をすれば、それはさらなる「嘘」(B)ではないでしょうか? 永井さんの「縦問題」と「横問題」を正直言って、いまだによくわからずにいますが、嘘Aが縦のウソなら、嘘Bが横のウソでしょうか?
2020-04-19 16:31:29@halching1 で、気づくことによって段を上っているつもりのその本人は、実は現実からどんどん遠ざかっているのではないでしょうか? 少なくとも、「ここは累進の最上段」と気づいたその時、その気づきはさらに高い段でなければ不可能であるのに、本人はその気づきを一段下の(自称)、「累進の最上段」に…(続)
2020-04-19 16:48:06「開闢の原点」にいることに“気づく”ためには、あるいはその“気づき”は、気づきそのもではなく“気づき”を眺める外部の視点ではないのか?と反論。
@MuhoNoelke 無方さんのおっしゃる「最上段での“気づき”」とは、構成によって自己が生じる、=〈私〉の《私》化だということですよね?それを“気づき”に“気づいている”と表現できる思います。そのとき、“私”とは“気づき”そのものだと思うのです。うまく言えているか自信がないのですが(続)
2020-04-20 22:25:00無方氏の反論に対して、“気づき”そのものに気づくことは〈私〉から《私》への平準化そのものではないかとhalching氏は反論。議論Aはいったんここまで。
さらに議論Bが始まる
@halching1 この議論と関係しているので、ここで書いてみます。 永井哲学ではしばしな〈私〉と〈今〉の独在性の類似点に言及される。その際、〈今〉は流れている、絶えずアップデートされているのに、〈私〉の場合そういう流れ(アップデート)はない。 (続く)
2020-04-20 21:09:50@halching1 ところが、〈私〉に気づくことによって、最上段であったはずの〈私〉はその瞬時に最上段ではなくなり、新たな最上段がその気づきによって生み出されてしまう。その気づきによる〈私〉のアップデートはまさに、〈今〉の流れではないだろうか。 〈私〉は〈今〉と違い、横には流れず、縦に流れてしまう。
2020-04-20 21:13:28議論Bについては、無方氏からの提唱がなされているがhalching氏からの反論はまだない。
以上、論点を整理すると
議論A:“気づき”に気づくとはいったいどういうことか?“気づき”そのものが在るとはいったいどういうことか?
議論B:〈私〉同様〈今〉は累進するか?
となります。ここから、無方氏との対話に続きます。