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波の卿はしばらく氷の上で意味もなくぐねぐねしたあと、何となく落ち着いたように静かになる。 「僕はどれほどこちらに留まれる」 「解りません。一刻か。一日か」 「神々が交わした光と闇の約定に風穴を開けたのだ。そんなところだな。とても氷の墓標まで詣でには行けまい」 「お望みなら私が」
2020-05-15 21:59:22「いいや。いたずらに白銀后の眠りを妨げはすまい…ならばよし。そこな海魔!」 波の卿はびしっと鰭を、スズユキに突き付ける。相手は目を丸くする。 「何て言ってるの?」 ダリューテの話す上妖精語は解るが、海豹の話す下妖精語はぴんとこないらしい。
2020-05-15 22:03:02海豹は嫌そうに髭をひくつかせてから、ほとんど訛りのない上妖精語に切り替える。 「いいか。今日ここに、白銀后親衛隊、北極支部を設立する」 「何言ってんの?」 「そして貴様が支部の隊員第一号だ!」 「えいっ」 めんどくさくなったスズユキが口から凍結の息吹を一閃させる。
2020-05-15 22:05:55だが海豹は一瞬早くみずからを霜で覆い尽くし、またすぐに解凍する。 「白銀后とは…歌とは…究極の美…どこまでも高く均整のとれた情熱とは…人間だけが持つ儚さと強さとは…そういうものを…分かち合ってやろう」 「もっかいやって?もっかいやって!」 「貴様が学ぶべきは枝葉の魔法ではない!」
2020-05-15 22:08:20少女の足元に升目があらわれ、四方八方を向いた矢印が刻まれる。 「ナガレルヒが恩着せがましく教えてきた術など使うこともあるまいと思ったが、布教の役には立とう。貴様のような海魔には、言葉より…こちらの方が伝わりやすい…舞踏革命!氷上踊りっこ対決がな!騎士よ!準備はいいか?」
2020-05-15 22:12:35鏡の乗り手は怜悧の双眸を瞬かせる。 「私にも踊れと」 「当然だ!」 気づけばダリューテの足元にも升目があらわれている。 「この僕に、見せ、聞かせててみろ。上妖精の高みをな。まずは白銀后のこの楽曲からだ!」
2020-05-15 22:16:06海豹がびたーんと鰭で氷原を叩くと、逆向きの氷柱が次々に生えて、高楼の如く成長し、都市のごとく周囲を埋め尽くすと、風を取り込んで震え鳴る巨大な楽器となる。 「あの歌声、あの演奏に及ぶべくもないが…それでも…伝えて見せる!」
2020-05-15 22:18:14かくして白銀后親衛隊北極支部はなし崩しに立ち上がった。 あとなぜか波の卿は予想に反してなかなか帰らなかったので、鏡の乗り手も付き合わざるを得なかった。海魔の娘は大興奮だった。 「白!銀!后!うきゃー!!会いたーい!」 「筋がいいぞ!スズユキ!」
2020-05-15 22:20:33この物語は、エルフの女奴隷が解放され、騎士となり復讐を遂げるヒロイックファンタジー…だと思うが、よく解らない寄り道も色々ある。 「騎士よ。いずれ盲目の船長に会うことがあったら伝えておけ。第七回公演における白銀后の振り付けの先進性に僕はようやく理解が及んだ。つまりあの時(早口)」
2020-05-15 22:24:45海魔すら封じた海妖精の生ける伝説を召喚したつもりだったのに、何かちょっと困ったなと鏡の乗り手は思ったが話はすべて傾聴したのだった。
2020-05-15 22:26:47何の話だっけ。 盲目の船長? まあいいや。さて妖精の騎士が変な道草を食っている間に、標的たる黒の乗り手は失われた力の源である魔法の指輪を取り戻そうとしていた。
2020-05-15 22:29:31魔法の指輪とは。 黒の乗り手の魂を縛る道具であり、不滅の幽鬼として倒れても蘇る無敵の加護を与える武器でもある。 かつて影の国を支配した闇の女王が作り出し、股肱の臣に与えた。多くは滅び、一つだけが残ったが、受け継いだ黒の乗り手はまた増やした。まるで生き物のように。
2020-05-15 22:32:51指輪は呪いの品でもあった。 指輪をはめた黒の乗り手は、闇の女王から決して離れられぬ奴隷となる。 だが呪いは闇の女王自身によって解かれた。となれば黒の乗り手はすでに加護を失い、不滅の幽鬼としての性質を亡くして、消滅しているべきだ。
2020-05-15 22:35:38だがそうは行かない事情はあった。 黒の乗り手は数奇な運命あるいは偶然、またはいかさまによって、闇の女王より強大な存在、冥皇から名代として力を授かり、一時とはいえ暗黒の精霊の一柱の位にのぼったのだ。
2020-05-15 22:41:40呪いが解け、闇の女王とのつながりが絶たれても、冥皇が注いだ力が残るうちは、黒の乗り手は持ちこたえていた。 だがそれも西方から攻め寄せてきた善き神々、光の諸王との対決によってほぼ蕩尽した。
2020-05-15 22:44:31黒の乗り手に最後に残ったのは、ほんの残滓のようなものにすぎなかったが、さらに九つの指輪に分割して、それぞれをぬいぐるみの中に収めると、世界のあちこちにばらまいてしまった。 こうなると、もはや小人が嵌めても姿を消すような効き目すらない。ただ朽ちていくだけだ。
2020-05-15 22:47:02狭の大地に産まれた新たな精霊だ。 精霊は本来、創造主たる唯一にして大いなるものの心の欠片であり、新たに産まれることはないはずだが、闇の男王は違った。
2020-05-15 22:53:24実はこの闇の男王も、黒の乗り手が作った。いや正確には鎖につないだ妖精の女奴隷に産ませたのだ。 万能の鬼札として。 もし黒の乗り手が、闇の女王や光の諸王に敗北した場合でも、大切なものを守れるようにと拵えておいた最後のとっておきだった。
2020-05-15 22:58:34黒の乗り手は残酷だった。 どこまで初めから意図していたかは定かでないが。 「ウィスト。手前はあんたさんに損な役回りをさせちまった。お袋さんと引き離して、故郷(くに)からもご先祖からも遠ざけて…おまけに…あんたさんが大きくなるまで手前が保たねえたあ、とんだしくじりでさあ」
2020-05-15 23:03:32黒の乗り手は闇の男王を抱いて歩きながらぶつぶつと呟いた。以前は楽しげな光を宿していた瞳はどこか濁っている。 だが赤子が小さな手を伸ばしてぺちりと男の頬を叩き、そのまま撫でると、双方に笑みが生まれる。 「ですがねえ。どうも手前のいかさまは、あんたさんには全部通じねえ気がしまさ」
2020-05-15 23:07:32「勝手なことを言や、あんたさんには普通に…穏やかに、幸せに生きてもらいてえ。だけどもし、あんたさんが手前の仕掛けを反故にしちまったら、そんときゃあ…ばくち打ちとしちゃあ…負けを認めるしかねえや」
2020-05-15 23:12:36果たして闇の男王は、八代目の黒の乗り手、運命のいかさま師、六本指の博徒と呼ばれた男の思惑を破り、もはや内に秘めた霊気ごと衰えゆくばかりだった指輪に新たな命をもたらし、黒き獣として蘇らせつつあった。
2020-05-15 23:16:27