- k551_jupiter
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「読み」→「書く」の移行する段階で、「書く」は「○○について書く」ことだから、句に内在する不可能性を、「○○について」の「○○」にあてはめられるような形式に無理やり変換してしまう、という心理につながる、と僕は分析しています。これは、誰にでも起こること。
2011-06-19 10:34:25この座談会の場合、散文化、脈絡の補完よりも、むしろ、取り合わせの必然、季語の効果に目が行っているように思えます。文脈を見出せない不安よりむしろ、必然や効果を見出せない不安。 RT @tajimaken http://t.co/uOHaIGX
2011-06-19 10:49:24季語は役に立つからそこにあるわけではないんですね。"@10_key: むしろ、取り合わせの必然、季語の効果に目が行っているように思えます。文脈を見出せない不安よりむしろ、必然や効果を見出せない不安。 RT @tajimaken http://t.co/kMUzRns"
2011-06-19 11:11:32「役立つ」という発想・捉え方。実用主義的、かつ、そう考えるほうがラク。(懐かしの十二音技法)。これはしかし、広く浸透していて、誰もが無縁ではない。 RT @tajimaken 季語は役に立つからそこにあるわけではないんですね。
2011-06-19 11:27:15役に立たないにもかかわらず、その場所を占めてしまい、一点のシミとして読み手の視線を奪う。それが季語、というよりもそういうものが俳句には少なからず入りこんでくるのですね。
2011-06-19 11:31:08激しく同意です。"@10_key: 誰もが無縁ではない。 RT @tajimaken 季語は役に立つからそこにあるわけではないんですね。"
2011-06-19 11:33:11では取り合わせの必然、効果をどう読み取るのか。読み取らなくていいのか。すると、どの句評も「うまく言えないけど何かイイ。」になっちゃう。自分の場合。 @tajimaken @10_key
2011-06-19 11:40:41昨日有効だった取り合わせの技法が、明日も有効とは限らない。その変化こそが「創造」だと思うんだ。 RT @rockets_yamada では取り合わせの必然、効果をどう読み取るのか。読み取らなくていいのか。すると、どの句評も「うまく言えないけど何かイイ。」になっちゃう。自分の場合。
2011-06-19 21:43:29どう読むのも自由だし、座談会の皆さんの意見を楽しませていただいたんですが、「夾竹桃といえば原爆」みたいな限定だけは困ると思ったんですよね。 @tajimaken spicaに限らず、僕自身も反省としてありますが、つい、俳句を散文的に理解可能なものに落としこもうとする心理
2011-06-19 21:34:53「この句は取り合わせの技法をたくみに使っています」じゃなくて、「こんな取り合わせ方は初めて見た、だけどすばらしい、なぜなんだ」と考えたい。
2011-06-19 21:46:12@tajimaken @leplusvert 最近のネットでの俳句解釈は寓意的過ぎます。結局、句の評論が「良く読めている自分」の説明になりがちです。俳句はかなり偶然の産物だと思いますが。どこまで自分の記憶の抽斗のファイルと重ねあうのかが「読み」の楽しみ。
2011-06-19 11:05:48俳句の面白さ、というとき、人それぞれだとは思うけれど、僕の場合、たとえば句会とか吟行とか、そういうものが直接的に面白い、というわけではない。俳句についての言説にしたって、これまで多くのエゴにつきあってきたわけで、もうお腹いっぱいなのだ。
2011-06-19 19:37:41考えて見ると、俳句を始めて最初の十年は、俳句の面白さはさっぱり分からなかった。もちろん、句会で「これがいい」とか、「あれがいい」とか、そいういうレベルでの見識はあったけど。世界は俳句より面白い物にあふれていたんだよ。
2011-06-19 19:31:22最近、俳句を面白がっている人に会うたびに、その人が俳句の何を面白がっているのかが気になる。そして、多くの場合、その人が感じている俳句の面白さは、僕とは違う。(ときどき同じことを感じている人に出会うことがある。そういう人とは、ことさらに親しくなったりする)
2011-06-19 19:46:55spicaに限らず、僕自身も反省としてありますが、つい、俳句を散文的に理解可能なものに落としこもうとする心理は、結構手ごわい。「夾竹桃」と「自分をふるいたたせろ」のあいだには、文脈は存在しないのでしょうね。
2011-06-19 10:29:03