本木雅弘で見る日本史

斎藤道三と真田昌幸が織田信長の参謀になる世界線があるらしいですよ 俳優で見る日本史→ http://togetter.com/li/976793
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島の人Part2 @simasyodes

#麒麟がくる が中断し、本木雅弘演じる斎藤道三が評判だったんで今回は放送がお休みの間にちょっとばっかりの慰みに #本木雅弘で見る日本史 を作成しました。連ついになりますのでしばらくミュート推奨。 連続ですと凍結の恐れがあるので少しずつ投下していきます。

2020-05-30 23:19:32
島の人Part2 @simasyodes

キャリアが長く出演作も多いので一部割愛しましたのでご了承ください。また、一部架空の人物やモデルとなった人物は実在の人物の経歴を採用しました。 #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:22:31
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作品中の表記は 例 ドラマ1(ド1) 映画1(映1) としますので巻末の出演作リストを参照にしてください。 #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:23:06
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敏達天皇3年(574)本木雅弘は生誕。以後歴史に名を刻む。(厩戸皇子)(ド6) 用明天皇2年(587)本木雅弘は蘇我馬子と物部守屋の争いで馬子側で参戦。自ら仏像を彫って戦勝を願い勝利に貢献する。(丁未の乱)(ド6) #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:26:39
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崇峻天皇5年(592)本木雅弘は皇太子となり、天皇を補佐する。(推古天皇)(ド6) 推古天皇9年(601)本木雅弘は宮殿を造る。(斑鳩宮)(ド6) 推古天皇11年(603)本木雅弘は従来の氏姓制度ではない人材登用制度を創設。(冠位十二階)(ド6)  #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:27:00
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推古天皇12年(604)本木雅弘は天皇や仏教を敬うよう17項目を通達する。(十七条憲法)(ド6) 推古天皇15年(697)本木雅弘は小野妹子らを隋に派遣するが国書で煬帝を煽った模様。(遣隋使・日出ずる処の天子)(ド6)  #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:27:23
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推古天皇23年(615)本木雅弘は仏教を信奉し、「法華経」「勝鬘経」「維摩経」の注釈書を著す。(三経義疏)(ド6) 推古天皇30年(622)本木雅弘は「10人コミュニケーション」や「空飛ぶ皇太子」等の伝説を残して亡くなる享年49と伝えられる。(ド6)  #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:27:49
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正応3年(1290)本木雅弘は胤仁親王(後伏見天皇)に仕えていたが、、やがて後醍醐天皇に仕えて元弘2年/正慶元年(1332)に流罪の天皇と共に隠岐島へ渡る。翌年には島を脱出し、挙兵する。(元弘の乱・船上山の戦い)(ド2)  #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:28:36
島の人Part2 @simasyodes

元弘3年/正慶2年(1333)本木雅弘は鎌倉幕府の終焉を見る。後醍醐天皇は功があった者へ多大な恩賞を与え、本木雅弘は犬追物や鷹狩に興じる。(建武の新政・結城親光、名和長年、楠木正成、千種忠顕「三木一草」)(ド2)    #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:30:41
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建武3年(1336)本木雅弘は新田義貞らと共に足利尊氏を討つべく挙兵し、一時は有利に戦いを進めるがやがて戦局は逆転、付き従う後醍醐天皇が比叡山に退去すると自身も西坂本雲母坂で討死する。(建武の乱)(ド2)  #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:31:30
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明応3年(1494)本木雅弘は生誕。11歳の時に京の寺に入るが大永年間(1521~1528)には父と共に美濃で武家に仕えていともされる。※「オイルビジネス」をしていたと諸説あり(ド10) #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:32:26
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大永7年(1527)本木雅弘は仕えていた土岐頼芸が兄政頼との家督争いに敗れると献策し、これを追い払うと享禄3年(1530)~天文2年(1533)?同じく頼芸に仕えていた長井長弘をあの世に送り、着々と地位を固める。(ド10)   #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:33:14
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天文7年(1538)本木雅弘は美濃守護代斎藤利良が病死すると名跡を継いで、翌年には居城の大改築を行なっている。(稲葉山城改築)(ド10) 天文10年(1541)本木雅弘は土岐頼満をあの世に送る。(ド10)  #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:34:24
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天文11年(1542)本木雅弘は土岐頼芸とその子頼次を尾張に追放する。(ド10) 天文13年(1543)~天文16年(1547)?本木雅弘は織田信秀、朝倉孝景、土岐頼芸と激突し、大軍を相手にこれを退け織田と和睦。翌年には娘帰蝶を織田信長に嫁がせた。(ド10)  #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:35:14
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天文21年(1552)本木雅弘は抵抗していた相羽城主長屋景興、揖斐城主揖斐光親らを倒し、頼芸を再び尾張に追いやり、美濃一国を遂に切り取る。(国盗り物語)(ド10) #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:35:54
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天文22年(1553)本木雅弘は織田信長と対面、鉄砲の大量配備とその立ち振る舞いに「我が家は織田家の軍門に下る」と予見する。(正徳寺会見)(ド10) #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:36:33
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天文23年(1554)本木雅弘は家督を義龍に譲り、剃髪して鷺山城に隠居。(斎藤道三)(ド10) 弘治元年(1555)本木雅弘は現在の家督を自身の寵愛する弟らへ渡そうと画策するが、義龍に阻まれ弟らは殺害される。(ド10)  #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:39:52
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弘治2年(1556年)本木雅弘は義龍と戦い、織田信長の援軍も間に合わず討ち取られる。(長良川の戦い)(ド10) #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:40:14
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天正10年(1582)本木雅弘は生誕。(映5) 慶長3年(1598)?本木雅弘は生涯初の決闘に勝利、以後無敗伝説が始まる。(映5) 慶長5年(1600)本木雅弘は豊後で合戦に参加。(関ヶ原の戦い・九州編)(映5) #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:40:37
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慶長9年(1604)?本木雅弘は吉岡清十郎と決闘、打ち倒したとも引き分けだったとも諸説あり(映5) 慶長17年(1612)本木雅弘は佐々木小次郎と決闘、これを撃ち破る。(巌流島の決闘)(映5)  #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:41:05
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慶長19年(1614)~慶長20年(1615)本木雅弘は水野勝成の子勝重に付いて合戦に参加する。(大坂の陣)(映5) 寛永元年(1624)本木雅弘は尾張に武術を伝え、弟子や養子の尽力もあり以後尾張を中心に発展していく。(円明流)(映5)  #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:41:27
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寛永15年(1638)本木雅弘は合戦に参加するも投石で負傷する。(島原の乱)(映5) 寛永17年(1640)本木雅弘は細川家でニートとなり、鷹狩り、絵画に興じる。(映5) 寛永20年(1643)本木雅弘は霊巌洞という洞窟に籠り、執筆を始める。(五輪書)(映5)  #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:42:01
島の人Part2 @simasyodes

正保2年(1645)本木雅弘は病死。自称「生涯60戦無敗」諸説あり(映5) 明暦2年(1656)本木雅弘は水戸に生誕。(ド1) 寛文5年(1665)本木雅弘は朱舜水に弟子入り、その向学心は朱舜水も認め、主君徳川光國も金3両を与えている。(映1) #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:42:32
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天和3年(1683)本木雅弘は彰考館に入り、史館編修に従事。(ド1) 元禄2年(1689)本木雅弘は「後に一緒に有名になる」佐々宗淳と「修史義例」を作成、4年後には共に彰考館総裁となる。(ド1)  #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:43:00
島の人Part2 @simasyodes

元禄9年(1696)本木雅弘は佐々らと「重修紀伝義例」で修史の方針を示し、また「神功皇后論」を著している。(ド1) 正徳4年(1714)本木雅弘は彰考館総裁を辞任するが、死の直前まで論賛や史料編纂を続ける。(ド1)  #本木雅弘で見る日本史

2020-05-30 23:44:52
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