共有の奇跡

0
@onoholiday

言語を持った人たちは、幸福になるのがずっと難しくなりました、ふしぎと言語は、人々の間に起こる出来事を解決するばかりか、複雑にすることばかりに役立って、また、本来は必要のなかった問題も起こしてしまったのです。わたしは、言語を発する人たちに、同情しました

2011-06-30 00:01:26
@onoholiday

作られたものの意図を理解するということはひとつひとつが奇跡でした。しかし言語ができてから、それを人に説明することは義務になり、また理解することは責任になりました。人々の暮らしから、理解や発見という奇跡の共有がなくなりました。彼らは魂で会話することができなくなってしまいました。

2011-06-30 00:04:27
@onoholiday

ひとつひとつの鳴る音、発する光、足跡、そういったものは、なんの説明もなく、また美しくとも、言葉なく共有され、それが人々のしあわせになっていました。あらゆるものの持つ必然性は、それが説明されないことによって張りつめて、いましたが、言葉を得た人たちは、それを解明しようとし始めました。

2011-06-30 00:06:52
@onoholiday

花が美しいこと、鳥が飛ぶものであること、木が呼吸すること、空が青いこと、それらはすべて人々の手によって語りつくされました。そうして、語りつくされた事実は色あせ、血の通わない記号に成り下がってしまったのです。血の通わないもので埋め尽くされた説明の世界で、人々は心に閉じこもりました。

2011-06-30 00:11:02
@onoholiday

あるべき真空を言葉が埋めていきました。言葉は世界を広げるものから、世界を定義してそこに閉じ込めるものに役割を変えました。さいしょ、感覚を表現する手段だった言葉は、めんどうな感覚の展開の手間を省くために、感覚のかわりにすき間を埋めるものになってしまいました。それで、全てが終わった。

2011-06-30 00:18:15
@onoholiday

そうしたら、わたしたちは、一度すべての言葉を失ったほうがいいのではないかという段階にやってきました。言葉が、共有の手段が、ひとりひとりから独自の経験を奪い去って、普遍的なものに変えてしまうから、共有という奇跡そのものが無価値になります。それは、言葉の存在意義に反する。

2011-06-30 00:20:00
@onoholiday

しかし、もはや言葉をなくすことは私たちにはできなくなっていました。ことばのあるところを真空に戻すと、わたしたちの作ったものは崩れて、覆いかぶさってくるからです。言葉に血を通わせるため、ある人はジェンガを抜き取るように、言葉の山から必要のないものを差し引いていきました。

2011-06-30 00:29:56
@onoholiday

言葉の山から言葉を抜き取って、言葉は骨組みだけになってしまいました。そうしたら、言葉のないところに、血管が通い始めました。言葉は肉体を持ちました。言葉に肉体を与えたのは、言葉の作り手ではなく、言葉の受け手でした。言葉の不足したところに、受け手が思わずあてがった肉体が、言葉でした。

2011-06-30 00:33:32
@onoholiday

なんだ、と思いました。大事なことを忘れていた。言葉を埋め尽くしたところに、その肉体や血は宿らない。言葉の作り手は、あえて言葉を不完全にしておいて、その受け手に血肉を与えさせることで、ひとつの言葉の橋を完成させました。とうとう言葉は、形骸化した記号から、共有の奇跡に戻ったのでした。

2011-06-30 00:36:05
@onoholiday

漠然と伝わったでしょうか?説明(共有)するということは、ある完全なものを提示することでなく、相手が考えるのを手伝うという話です。かんぺきな説明はそれに対する検証の余地がないので、「意識の真空」を混ぜることで感覚の共有を補完できるということです。そんなことを、急に思いました。

2011-06-30 00:41:40