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2010年4月21日

コンテキストとキーワードの遊離 〜 イエスの受難を題材に

癖でそれっぽいタイトルにしてしまったが、 中身は単なる教養トーク+日常的感想ログです。 (なお、教養というのは、専門レベルでないという程度の意味) ◆イエスの「受難」とは何だったのか 続きを読む
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にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

集団のために個人が犠牲になる、という話についての褒貶は絶えないな。

2010-04-04 23:43:43
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

極めて単純な話で、人間は「我々」のためには死ぬが、「お前等」のためには死なないという程度の話であり、「おまえ、俺たちのために死んでくれよ」と言った瞬間その「おまえ」は「俺たち」から追放され、その「おまえ」は「お前等のためには死ねない」としか返せなくなるというだけのことだ。

2010-04-04 23:44:47
@vanaheimr

>イエス・キリストをテーマに映画制作へ http://j.mp/9h4nEQ 「イエスの背負った苦難は、実際には重要なことじゃない。確かにひどい話だが、ひどい終わりを迎える人なんてたくさんいる。」 /(初めに見たRTがどこから流れてきたとか憶えてないので、自演ポストを設置しとく)

2010-04-21 10:26:35
--- @vanaheimr

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2010-03-11 01:25:49
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ジーザスは何故偉大とされてきたか。受難という物語はそこに大きなファクターを占めている。彼は磔台を担いで歩き、打ち付けられ、六時間ほど経って死んだ。とは言え、苦痛に悶えるだけなら、もっと苦しんだ人は世界に無数にいる。実際、「六時間磔台の上にいた」苦痛自体にはなんら重要性はないのだ。

2010-04-19 20:59:42
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

前に多数のために死ぬことと、一人称と二人称の話をした。人は「我々」のために死ねるが、「お前達」のためには死ねないという話だ。「皆のために死ね、と誰かに言う時、彼を『皆』から追放してしまい、彼にとって『皆』が『我々』でなく『お前達』になる」という話だったが、そこは今回重要ではない。

2010-04-19 21:04:05
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

イエスが偉大とされてきた文脈も、まさにこの一人称と二人称の問題に関わるし、そこに「キリスト教」という枠組みを成す根幹の1つがある。簡単に言えば、イエスはどういう立場で、何のために死んだのかという話だ。

2010-04-19 21:07:05
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イエスは全人類のために自らを生け贄として、その罪を贖った。それがキリスト教の基本的理念である。では、イエスとこの人類の関係は何なのか。イエスは人だろうか。然り、「人の子」である。では、ただの人だろうか。否、「神の子」と言っているし、実際、聖書では神性を見せたシーンがある。

2010-04-19 21:11:54
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

そもそも、ただの人、一個人に、人類の罪なんてものが贖えるだろうか?そんなアホな。では、イエスが神(ないしそれに準ずる存在)だとしよう。神という立場で、なんで人の罪を背負えるのか。そんなこんなで、イエスは神にして人であるという両性説、さらに言えば三位一体説が確立されたわけですが——

2010-04-19 21:16:11
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

要はこの、「神という立場で、なんで人の罪を背負えるのか」というお話が重要なわけです。神という立場では人の罪は背負えない。だから神が人として受肉して、人として人の罪を背負って、生け贄として殺されることで罪を贖ったと。では神だったなら、何でわざわざ人になって人の贖いをしてあげたのか?

2010-04-19 21:20:23
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

何でわざわざ。つまりこれです。ジーザスの受難の物語は、「本来その必然性が全くない」のに、人類のために、人類の罪を背負って贖った。二人称たる存在のために、自発的に受難して苦しんで命を捨てたというお話なわけです。一人称集団のために死ぬことすら、普通の人間には難事で、誉れな一方、です。

2010-04-19 21:28:00
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

突然こんな話を始めたのはこちらの記事を読んでのことですが >イエス・キリストをテーマに映画制作へ 『氷の微笑』ポール・ヴァーホーヴェン監督 - シネマトゥデイ http://j.mp/9h4nEQ /さらに言えば、別にあたしゃキリスト教の護教家ではないので、今までのは前置きです。

2010-04-19 21:31:21
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何故そういうことになってきたかという文脈を把握してないせいで、「あんな受難大したことじゃないよ」とかくだらないことを言い出して、ピント外れのことを言っている人がいる光景を見て、「あはれ」と思ったという話です。よくある、「過去を過去に基盤を持たないことで断罪する」とかの類いですね。

2010-04-19 21:38:10
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

近代というものが(この場合は)「合理的宗教なるものに仕立てたキリスト教」を専らやってきたために、その基盤(文脈)を見えぬものとしてずっとやってきた。そして、宙に浮いた非近代がエキゾチシズムやオリエンタリズムによって好き勝手弄ばれてきた。そんな光景がまた1つ目の前に現れたのでした。

2010-04-19 21:43:14
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

ああ、念のために言っておきますと、別に件の監督さんを罵倒するとかそんなことは全くするつもりはなくて、別に彼には普通に頑張ってもらえればいいと思うんですが、単にあはれを感じただけのことです。彼個人にというより、その背後にあるものに。

2010-04-19 21:45:39
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

なお、もちろんのこと、贖罪論で一人称とか二人称とかいうフレーズが使われてきたなんてことはなくて、冒頭に挙げた、ちょっと前に自分がした話の表現に引き付けた論じ方をしているという程度の話です。

2010-04-21 11:06:53
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

要は「受難」説話というのは、神の人間への愛(アガペー)による「自発的な犠牲」であって、「外的要因に強いられて苦しんだ」という話ではない。「苦しめられたこと」自体に重要性はそりゃないし、「様々な要因に苦しめられる悲惨な人々は無数にいるんだ」という話は的が外れていると、そういうこと。

2010-04-21 11:07:06
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

まあ、さらに言えば、的が外れていること自体は重要でなく、何故的が外れた言説が生まれるのかという背景に私の関心はあるわけです。

2010-04-21 11:08:32
--- @vanaheimr

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2010-03-11 01:25:49
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

なお別に護教家でないというのは、「六時間の磔?ハッ、大したことねーな。何が偉大だ」とかいう輩には「は?馬鹿?」という目線を向けても、「ハァ?罪ィ?何だそりゃ?誰が贖ってくれて言ったよ?地獄?知るかファック!」という奴に一々顔はしかめないということです。別にキリスト教徒じゃないし。

2010-04-19 22:12:45
--- @vanaheimr

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2010-03-11 01:25:49
にるば@コボルド史論pdf頒布中(booth) @nirvanaheim

「二人称性の突き詰めとしてのグノーシス」をトゥギャりました。 http://togetter.com/li/16302

2010-04-24 00:15:37

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