戦争中の船員待遇改善の歴史
<戦争中の船員の待遇改善の歴史> 鹿児島商船学校を経て東京高等商船学校卒、山月丸二等運転士の谷山君。 18才でガダルカナル島へ陸軍御用船として昭和17年11月13日進撃。帰港不可能となり総員78名が上陸。敵襲と飢え。「転進」と報道されていたガ島敗退で無事生還したのは3名。うちの一人だ。
2020-08-16 14:04:18ガダルカナル撤収作戦を聞いた時には船員も希望をいだいた、しかし撤収の引き上げ順は、将校下士官、兵、ついで軍属、軍属船員、そして軍馬より下とされた船員は後回し、乗り込めない。 吉野船長が谷山に言った。
2020-08-16 14:04:18吉野船長が谷山に言った「ワシはここに残る。キミはまだ若いし、これからの人だ。どんなことがあっても駆逐艦に乗り込め。そして我々がこれだけ奮闘したことを、報いられることなく南海の孤島に果てていった、海の男達のありさまを、遺族に伝えてくれ。そして船員の悲惨な現状をしかるべき人に-」
2020-08-16 14:04:18代議士小山亮は現れた谷山の話を聞きいり涙した。 小山は早速議会秘密会議で島田海相にただした。 「海軍大臣にお尋ねするが、こういう事実をご存知か、いや事実があるのだから重大問題だ。海洋戦の先兵として、身命をとして海上輸送に身を挺した船員を、上陸作戦の時はまっ先に出しておきながら撤収の
2020-08-16 14:04:19…撤収の時は最後。最後ならまだしもだ。軍属はダメ、船員は取り残されるという。こんなことがあってよいものか…」 これには海軍大臣も一言の弁明もできず、うつろなまなざしを議場のあらぬ一点にじっと向けるだけだった。
2020-08-16 14:04:19昭和19年1月31日の衆議院運輸通信委員会での「船舶職員法」審議でも当局の改善を求めている。 「海軍では水平にも毛の外套が支給されるのに、商船では船長でさえも防寒外套が行き渡らない。また長靴がないので新聞紙を足に巻き、その上にボロを巻き、それをヒモで結んで働いている。…
2020-08-16 14:04:19…その姿は実に哀れである。また船の汽缶掃除がそんなに辛いか、お役人にはわからぬだろう(略)船員は事実上の戦闘要員なのだから、民需ではなく軍需にすべきである」
2020-08-16 14:04:20もちろん小山を議会から追放しようとする動きもあった。総動員法によって予備船員として乗り込ませようとしたが失敗した。 (戦中の派閥争いは、戦地に行かせる方法がよく出てきます)
2020-08-16 14:06:03小山は島国の戦争の主体は海軍や陸軍ではなく実に日本商船隊であり、商船乗組員である、補給路の維持であると説き、船員の待遇改善に「船員軍人待遇案」を出した。軍人案は軍人が許さない。そこで「官吏待遇案」に切り替えるが、今度は法制局がガンとしてきかない。
2020-08-16 14:06:03そこに若手運輸官僚の土屋研一が立ち上がる。(この土屋氏の背景もすごい) 最後のチャンス。東条内閣最後の閣議。首相は取り合わなかったが、ギリギリで「船員待遇職員令」が成立。 しかし結局、事務手続きの間に終戦となります。実際には実現できぬままとなりました。(了
2020-08-16 14:07:56