幕末の長岡藩・河合繼之助の生涯をまとめてみた

幕末の長岡藩で北越戊辰戦争を指揮した河井繼之助の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1868年10月1日(慶応4年8月16日)越後長岡藩・牧野家の家臣 河井繼之助が北越戦争の戦闘中での怪我により、亡くなりました。享年42。 最後まで従っていた者に自身の火葬の準備をさせ、その火を見つめながら亡くなったそうです。 #幕末 #北越戦争 pic.twitter.com/rAv5P6TdzB

2020-10-01 10:00:00
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1827年1月27日(文政10年1月1日) 河井繼之助は長岡藩の中級藩士・河井代右衛門の嫡男として長岡城下に生まれ、名を秋義、蒼龍窟と号しました。 河井家は代々能史の家柄で、繼之助の父・代右衛門も勘定頭を務めていましたが、その一方で僧の良寛とも親交のある教養人でもありました。 pic.twitter.com/YQhVpqG2bT

2020-10-01 14:23:21
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繼之助は、年長者の理不尽な脅しにも屈しない意思の強い子供だったそうです。1842年(天保13年)に元服、秋義と名乗ります。 24歳で藩主の側近・梛野嘉兵衛の妹・すがを妻に迎えますが、向学心は止まず26歳で単身江戸を目指し、蘭学や西洋砲術で知られた佐久間象山らの門を叩きました。 pic.twitter.com/eoJbmVys4J

2020-10-01 14:23:22
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時は幕末・黒船来航で事態は容易でないと肌で感じた繼之助は、幕府老中で藩主・牧野忠雅に藩政改革の必要性を建言。 これが採用され初の役職、評定方随役を任命されますが、間もなく上役の迫害を受けて退任しました。 1857年(安政4年)繼之助は家督を引継ぎ、藩では外様吟味役に起用されます。 pic.twitter.com/SMd0pDnm52

2020-10-01 14:23:24
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1858年(安政5年)に再び繼之助は峠を越え、今度は江戸だけに留まらず西へと向かいました。 目指したのは備中松山藩(現:岡山県高梁市)の陽明学者・山田方谷です。山田の許で修養に励む間も佐賀・長崎・熊本も訪れ、知見を広めます。 pic.twitter.com/Lvy3qeyyWD

2020-10-01 14:23:27
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繼之助は藩の危機的財政を救った改革者の門で半年間学び、翌年3月に松山を去って江戸へ戻り、しばらく横浜に滞在し 1860年(万延元年)34歳で帰郷しました。 1862年(文久2年)に藩主・牧野忠恭が京都所司代になると繼之助も京都詰を命じられ、翌1863年(文久3年)正月に上洛します。 pic.twitter.com/TSQkjZb5jw

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繼之助は忠恭に所司代の辞任を勧めますが、忠恭はこれを承知しませんでした。しかし、4月下旬に攘夷実行の決定をきっかけに忠恭も辞意を決意。 辞意が認められると忠恭は江戸に戻りますが、忠恭は今度は老中に任命されてしまいます。繼之助は公用人に命じられ江戸詰となると、忠恭に老中辞任を進言。

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その際、辞任撤回の説得に訪れた分家の常陸笠間藩主・牧野貞明を罵倒し、結局この責任を取って公用人を辞し長岡へ帰藩しました。 忠恭は勝手用掛を命じられますが、1865年5月7日(慶応元年4月13日)病を理由に老中職を退きます。 京都所司代、老中の辞任はいずれも繼之助の進言によるものでした。 pic.twitter.com/rCAmWCWRLP

2020-10-01 14:23:29
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1865年(慶応元年)繼之助は外様吟味役に再任されると、その3ヶ月後に郡奉行に就任。 これ以降、繼之助は藩の難題に対し辣腕をふるい、藩の改革を始めます。時宜を得た進言をすることで藩主にも重用されました。 また、賄賂・賭博・遊郭を、株の特権なども廃止して商業振興を図ります。 pic.twitter.com/sd2C6vuvA2

2020-10-01 16:28:34
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一方 北前船で生産物を京阪に持ち込み、多額の利益を上げました。繼之助が郡奉行に就任した当時、長岡藩は12万両の赤字を抱えていました。 江戸時代の1両の価値は現代の18~22万円といわるので、およそ264億円の赤字ですが、これを僅か3年足らずで約11万両の剰余金を積み上げるまで蘇らせます。

2020-10-01 16:28:35
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この財力で大砲30門を配備、ミニエー銃を全藩士に持たせ 兵学所を整備してフランス式兵制を取り入れるなど、 長岡藩は他藩が目を見張るほどの近代武装を成し遂げました。 pic.twitter.com/no7QaoaMtJ

2020-10-01 16:28:36
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1867年11月9日(慶応3年10月14日)15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速しました。 この慶喜の動きに対し、討幕派は1868年1月3日(慶応4年12月9日)に王政復古の大号令を発します。 pic.twitter.com/CO7ljqS11A

2020-10-01 16:28:37
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一方の長岡藩では、藩主・忠恭は隠居し牧野忠訓が藩主となっていました。長岡藩は譜代の名門で、歴代藩主が 幕府の老中職を3代に渡り務めた事から、討幕派の薩摩・長州藩とは対立する立場でした。大政奉還の報せを受けた忠訓や繼之助らは公武周旋の為に上洛します。 pic.twitter.com/l2gkcKGOXH

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やがて繼之助は藩主の名代として議定所へ出頭し 「諸外国の脅威から国を守り、国内での争いを避けるには徳川氏を中心とする国家体制に戻すべき」 と徳川氏を擁護する内容の建言書を提出しますが、それに対する反応は何もありませんでした。 pic.twitter.com/BDRU6Vza5m

2020-10-01 16:28:39
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1868年1月27日(慶応4年1月3日)鳥羽・伏見において会津・桑名を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘始まりました。世にいう戊辰戦争です。 大坂を警衛していた繼之助らは旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると、急ぎ江戸へ戻ります。 pic.twitter.com/B8qK7P031d

2020-10-01 16:28:41
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藩主らを先に長岡へ帰させると、繼之助は江戸藩邸を処分し家宝などを全て売却。 そのお金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ、軍資金を増やしました。 pic.twitter.com/xpjS70GMlB

2020-10-01 16:28:43
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同時にイギリス人の武器商人のウォーター、アメリカ人の武器商人のスミス、ファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)スネル兄弟などから アームストロング砲、ガトリング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃(軍用カービン)などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還。 pic.twitter.com/dMKnkp9Ohq

2020-10-01 16:28:45
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特にガトリング砲は当時の日本には3台しか無く、その内の1台を長岡藩が装備していたのです。 1868年5月3日(4月11日) 江戸城が無血開城すると、新政府軍の標的は会津藩に変わりました。 新政府軍が組織した征東軍は会津藩征討のため 越後に入ると高田城下で二手に分かれました。 pic.twitter.com/0rgCZdGrPi

2020-10-01 16:28:48
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1868年6月11日(慶応4年閏4月21日)には当面の目標である長岡城下へと向かいました。 同年6月16日(閏4月26日)には雪峠で会津藩兵らと新政府軍とが衝突し、新政府軍が勝利します。 繼之助は家老上席兼軍事総督に任じられ、長岡藩の全権を委任されました。 pic.twitter.com/NAnjkZeJ2p

2020-10-01 20:16:41
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長岡藩内では新政府軍に恭順しようとする意見もありましたが、繼之助はこれを退け勤皇佐幕に偏せず、双方に尽くす事が長岡藩の立場だと藩士に説きました。 1868年(慶応4年5月2日)繼之助は戦争を回避するため、小千谷の慈眼寺で新政府軍との談判に臨みます。 pic.twitter.com/bBgisFUmwk

2020-10-01 20:16:44
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談判の相手は繼之助が期待する北陸道鎮撫総督軍参謀の山縣有朋や黒田清隆ではなく、23歳の軍監・岩村精一郎でした。 「治国平天下」を訴えた藩主からの嘆願書を手に 会津藩との仲介を申し出る繼之助に対し、岩村は長岡藩の時間稼ぎだとして取り合いませんでした。 pic.twitter.com/p2a13NRmyU

2020-10-01 20:16:46
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岩村は取り縋る繼之助を振り払い、談判は僅か30分で決裂してしまいます。岩村がどれだけ重要な人物との会談であったかを知るのは後年になってからでした。 談判決裂後、繼之助は戦いに反対していた川島億次郎(三島億二郎)に「我を斬り、3万両と共に首を差出せば戦争は避けられる」と切り出します。 pic.twitter.com/Hni13f3GTD

2020-10-01 20:16:49
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繼之助の幼馴染で親友だった川島は当初は新政府軍に抗戦する事には反対していましたが、開戦の決意を固めた繼之助に 「是非も無し。死生を共にせん」 と応じます。こうして長岡藩は壮烈な北越戊辰戦争への舵を切る事になっていくのです。 pic.twitter.com/RoOAu8zLl4

2020-10-01 20:16:52
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談判決裂後、長岡藩本陣の在る光福寺に戻った繼之助は同義に基づく社会のため、藩をあげて戦おうと諸隊長の前で演説し、徹底抗戦を宣言します。 繼之助は長岡藩領境に位置する要衝・榎峠を新政府軍から奪還するため、綿密な計画を練り上げました。

2020-10-01 23:42:59
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1868年6月29日(慶応4年5月10日)夕方、信濃川の増水時を狙い長岡藩兵は榎峠に怒涛のように攻めかかりました。 この戦いで勝利を飾り、奥羽越列藩同盟軍は榎峠の南東の朝日山に要塞を確保します。 pic.twitter.com/NhJkCNUr6w

2020-10-01 23:43:15
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