幕末の長岡藩・河合繼之助の生涯をまとめてみた

幕末の長岡藩で北越戊辰戦争を指揮した河井繼之助の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1868年7月2日(慶応4年5月13日)早朝に新政府軍は朝日山に奇襲をかけますが、同盟軍の攻撃で撤退。 この時、新政府軍は東山道軍参謀代理・時山直八を失います。山縣は盟友の死を哀しみ 「仇守る砦のかがり影ふけて 夏の身にしむ越の山風」と詠みました。 pic.twitter.com/y9KfftjoIu

2020-10-01 23:43:40
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同盟軍優位の戦局を打破するため、同年7月8日(5月19日)早朝 視界を遮るほどの濃霧の中、新政府軍100余名の兵は信濃川を渡河して来ます。 新政府軍は二手に分かれ、城下に火を付けながら長岡城を目指します。繼之助はこの報せを受け、摂田屋村の本陣からガトリング砲と共に城下に駆け付けました。 pic.twitter.com/Wegmf1bW8O

2020-10-01 23:43:42
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徹底抗戦の構えを見せていた長岡藩兵に対し、濃霧による視界不良で敵味方を見誤った味方であるはずの村松藩兵が背後から銃声を浴びせます。 このため、村松藩(現:新潟県五泉市に在った藩)兵の裏切りだと驚いた長岡藩兵は次々に長岡城へと後退してしまいました。

2020-10-01 23:43:42
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繼之助は長岡城大手門入り口にガトリング砲を構え、自ら操作して新政府軍に連射砲を発射して応戦しますが 主力を榎峠や朝日山に置いていた長岡藩は総崩れとなり、この日 250年間守られてきた長岡城は火の海の中、僅か1日で落城してしまいました。 pic.twitter.com/JwZQAIrMsl

2020-10-01 23:43:44
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長岡城下を追われた繼之助は東山連峰の森立峠から燃え盛る城を見下ろして再起を誓い、長岡藩士らとともに桑名藩お預かり地の加茂に進軍しました。 加茂では奥羽越列藩同盟による初めての軍議が開かれました。ここで繼之助は見附を占領し長岡城奪還を主張します。 pic.twitter.com/NUDCpd6F9q

2020-10-01 23:43:47
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同盟軍の結束で、新政府軍との戦いはさらに苛烈を極めるものになっていきました。 1868年7月21日(慶応4年6月2日)繼之助率いる長岡藩兵は新政府軍が占領していた今町に攻め入ります。 繼之助の陽動作戦で同盟軍は勝利し、新政府軍は撤退し長岡城へ向け戦線を一気に南下させました。

2020-10-01 23:43:48
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7月26日(6月7日)から始まった福井・大黒周辺の戦いは1ヶ月半に及び、両軍共に苦戦を強いられます。 この状況を打破するため、繼之助は当時、魔物が住むと恐れられていた大湿原の八丁沖を秘かに偵察させ、綿密な調査の後、これを渡り長岡城を奪還するという大胆な作戦に出ます。 pic.twitter.com/u16okiGQfy

2020-10-01 23:43:50
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9月10日(7月24日)600名を超える長岡藩兵は闇夜に紛れ、息を潜めて八丁沖を渡り始めます。 翌日早朝、対岸の冨島村に上陸した長岡藩兵は一斉に新政府軍に襲撃を開始。四手に分かれて長岡城を目指しました。 不意を突かれた新政府軍は敗走し、長岡藩兵は約2ヶ月ぶりに長岡城を奪還したのです。 pic.twitter.com/moVFdUKPhq

2020-10-01 23:43:54
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城下では町民が酒樽を出して長岡藩兵を歓迎し、繼之助は感激の涙を流して城内に入ったそうです。 しかし奪還の喜びも束の間、すぐに新政府軍による逆襲が始まります。繼之助は激戦地の新町口に兵を進め 赴きますが、左膝に弾丸が命中し重傷を負ってしまいました。

2020-10-01 23:43:55
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総指揮官の負傷で長岡藩兵の士気は一気に衰え、戦況は悪化の一途を辿り 奪還から僅か4日後の9月15日(7月29日)長岡城は再び落城してしまいます。 これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津へと移っていきます。 pic.twitter.com/XM2u3iTHHP

2020-10-02 01:25:23
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後年「帝国陸軍の異端児」と称された陸軍中将・石原莞爾は、陸軍大学校で河井繼之助の戦術を研究した卒業論文を執筆しています。 pic.twitter.com/yUI52g3tN1

2020-10-02 01:25:24
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繼之助は担架に乗せられ、見附や栃尾を経て八十里越の越後側の起点・吉ヶ平に入りました。 八十里越は越後と会津の交易の街道として当時往来が盛んでした。実際は八里(=約32km)でしたが、 一里(=約4km)が十里(約40km)に感じられるほどの険しい難所だったため、この名がついたそうです。 pic.twitter.com/J2mJEwoZx2

2020-10-02 01:25:27
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繼之助は悪路に揺られながら 「八十里 こし抜け武士の越す峠」 と自嘲の句を詠みます。 会津藩領に入った繼之助は只見村(現:南会津郡只見町)で休息をとります。 ここで前藩主・牧野忠恭の依頼で会津若松から治療に来た松本良順の診察を受け、松本が持参して来た牛肉を平らげてみせました。 pic.twitter.com/iILk2JONg1

2020-10-02 01:25:30
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1868年9月27日(慶応4年8月12日)繼之助は松本の勧めもあり、只見村から会津若松へ向けてを出発し ここ塩沢村に到着します。 しかし既にこの時、繼之助の傷は破傷風により手遅れな状態でした。繼之助自身も自分の最期が近づきつつあるのを悟り 長岡藩の家臣・花輪らに対し pic.twitter.com/42pLUhbKij

2020-10-02 01:25:32
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今後は出羽・庄内藩と行動を共にすべき事や、藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命(結局果たされず)など後図を託しました。 繼之助の最期を看取った栃尾組の庄屋の若者のの一人・外山脩造は繼之助からかけられた「商人になれ」の言葉を忠実に守り、 pic.twitter.com/BG8dmCoeAv

2020-10-02 01:25:35
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後に大蔵省官僚を経て阪神電鉄や大阪麦酒会社(現:アサヒビール株式会社)を創業し、日本の近代化を図る重要な役割を担いました。 繼之助の慧眼は死の淵にあっても、日本の未来を見据えていたのです。

2020-10-02 01:25:35
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塩沢では体調不安定な状態が続いた為、9月30日(8月15日)の夜、繼之助は従僕の松蔵を呼ぶと、これまでの労いの言葉をかけると共に火葬の仕度を命じました。 翌10月1日(8月16日)の昼頃に繼之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥ります。 pic.twitter.com/Trka59teZA

2020-10-02 01:25:38
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そして再び目を覚ますことのないまま、同日午後8時頃、只見・塩沢村の医師・矢澤宗益宅にて亡くなりました。享年42。 繼之助の終焉の家(矢澤家)は1961年(昭和36年)只見川電源開発による水没の為、現在は福島県南会津郡只見町の河井繼之助記念館内に移築されています。 pic.twitter.com/xehmW0HDn6

2020-10-02 01:25:40
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話が少しそれますが、ひとつ前のツイートの1枚目の写真。この裏面には近代史に名を残す人物の名が刻まれています。 この碑は1937年(昭和12年)に作られたものだそうです。刻まれている人物の名は真珠湾奇襲を命じ、聯合艦隊司令長官になった山本五十六です。 pic.twitter.com/l1fjnlcRe8

2020-10-02 01:25:42
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繼之助の葬式は会津城下で行われました。遺骨は新政府軍が会津城下侵入してきた際に墓が発かれる事を慮り、従僕の松蔵によって 会津のとある松の木の下(現:会津若松市建福寺前 小田山中腹)に埋葬されました。 実際に新政府軍は城下の墓所に建てられた繼之助の仮墓から遺骨を持出そうとしていますが

2020-10-02 01:25:42
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中身が砂石だった為に繼之助の生存を疑い、恐怖したという逸話が残っています。現在は臨済宗 妙心寺派 大寶山 建福寺管理の下 「河井繼之助一時埋葬地」として同所に墓碑「故長岡藩総督河井繼之助君埋骨遺跡」の碑が在ります。 pic.twitter.com/fBJNwKs5qP

2020-10-02 01:25:44
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また、只見町塩沢の医王寺にも村人が荼毘で残った細骨を葬った墓が残されています。 小千谷の慈眼寺の住職様のお話では現在、只見町のお墓やお寺も管理されているとのことでした。 pic.twitter.com/E3Nndp2rFb

2020-10-02 01:25:47
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戦後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けます。その遺骨は現在、河井家の墓が在る栄凉寺に再び埋葬されました。 しかしその後、繼之助の墓石は長岡を荒廃させた張本人として、繼之助を恨む者たちによって何度も倒されたそうです。 pic.twitter.com/V3Vho3bFKg

2020-10-02 01:25:49
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この様に繼之助の人物を賞賛する声がある一方で、戦争責任者として繼之助を非難する言動も明治以後、現在に至るまで続いています。 主導者だった繼之助が既に戦没していた為、明治新政府より死一等を免じる代わりに河井家は家名断絶という処分を受けました。 pic.twitter.com/2kh9ZDrzdh

2020-10-02 01:25:51
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長岡藩11代藩主・牧野忠恭はこれを憂い、繼之助の養女の夫・森源三に新知100石を与えて繼之助の家族を扶養させました。 1883年(明治16年)に河井家は再興を許され、森の子・茂樹を養嗣子として迎え入れたのです。

2020-10-02 01:25:52