歴土&歴埃&歴蒙イベントツイートまとめ

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歴プトbot @rekipt_bot

皆、アッサラームアライクム。今日は昨日の日本に引き続きスペインの誕生日だそうだな。太陽の国へ、平安を祈ろう

2012-02-12 22:34:47
歴プトbot @rekipt_bot

今は歴西(れきぶん:@rekispa_bot)がレコンキスタについて話しているようだから、私も少しイベリア半島でのイスラーム諸国について話そうと思う

2012-02-12 22:36:01
歴プトbot @rekipt_bot

イスラーム勢力がイベリア半島に出兵したのは711年のことだ。当時、シリアのダマスカスに都を置いていたウマイヤ朝は、東は中央アジア・インド、西はアフリカ西岸まで勢力を伸ばし、ヨーロッパへ向かおうとしていた。

2012-02-12 22:38:14
歴プトbot @rekipt_bot

その遠征軍の将軍の名をターリク・ブン=ズィヤードと言う。ジブラルタルという地名はジャバル・アル=ターリク、すなわち「ターリクの山」が訛ったものだと言われている。

2012-02-12 22:40:06
歴プトbot @rekipt_bot

当時、イベリア半島にあった西ゴート王国は弱体化していて建国期の尚武の気風を残していたアラブ騎兵と北アフリカの槍騎兵として恐れられた精強な遊牧民イマズィゲン(ベルベル人)の敵ではなかった

2012-02-12 22:45:04
歴プトbot @rekipt_bot

南回りでイベリア半島へ侵入したイスラーム軍は破竹の勢いで進撃し、北部の山岳地帯を除いて半島のおよそ9割を支配下に置き、732年には現在のフランスのポワティエ付近へ食い込んだ。だが、この時の将軍アル=ガフィーキーはフランク王国の宮宰カール・マルテルに敗れる。

2012-02-12 22:47:44
歴プトbot @rekipt_bot

これが有名なトゥール・ポワティエ間の戦いだ。カール・マルテルの子孫はフランク王国で新たな王朝を建てるが……まあ、これはフランスに聞いてもらった方がいいだろう。

2012-02-12 22:49:02
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その後しばらくはウマイヤ朝の支配が続く……が、747年、はるか東方、イランのホラーサーン地方で起こった革命はこの地に思わぬ影響を及ぼすこととなる。

2012-02-12 22:51:21
歴プトbot @rekipt_bot

アラブ人を優遇するウマイヤ朝の政策に怒った新改宗者、スンニ派王朝のもとで不遇を強いられてきたシーア派の人々などが一斉に蜂起した。この革命は瞬く間に燎原の火のごとくイスラーム世界に広がり、750年1月、最期のウマイヤ朝君主マルワーン2世が殺された。

2012-02-12 22:54:48
歴プトbot @rekipt_bot

この革命はある意味必然的に起こった。ウマイヤ朝統治への不満もあっただろう。だが、この王家に産まれてしまったがために殺されるとすればあまりに不憫な最期だ。そんな最期を迎えたくないと思った一人の少年がいた。名をアブドゥルラフマーン。

2012-02-12 22:56:37
歴プトbot @rekipt_bot

彼はシリアのダマスカスから脱出し、シャームを南下、途中で弟を殺され――エジプトを通り、母方の縁を頼って北アフリカのイマズィゲン部族のもとへ身を寄せた。彼は、ウマイヤ朝を倒したアッバース朝の手の届かぬところで自らの王国を建てようと決意した。

2012-02-12 22:58:38
歴プトbot @rekipt_bot

755年、アブドゥルラフマーンはかつてターリクが渡った海を越えた。アッバース朝の総督を倒し、混乱の中でありながら西ゴート王族の残党を撃退、アッバース朝の君主マンスールに「私とあの男の間に大洋を置き給うた神に讃えあれ」とまで言わしめた。ここに、後ウマイヤ朝が成立する。

2012-02-12 23:01:25
歴プトbot @rekipt_bot

アブドゥルラフマーンは周囲から「クライシュの鷹」と呼ばれて恐れられ、フランク王国のカール大帝の侵攻を撃退した。このあたりのことは『ローランの歌』に描写されていたのではなかったかな。

2012-02-12 23:04:12
歴プトbot @rekipt_bot

西ゴート王国時代に冷酷に待遇されてきたユダヤ教徒や、アラブ人、イマズィゲン、そして現地のキリスト教徒たちもあわせて、後ウマイヤ朝は当時としてはまれに見る多様な文化を育む国となった。

2012-02-12 23:06:15
歴プトbot @rekipt_bot

ウマイヤ家が支配していた時期のコルドバは人口40万を数えた。中世のヨーロッパではパリやローマでも10万を数えることはまずなかったから、これはヨーロッパ最大規模の都市と言っていい。

2012-02-12 23:08:41
歴プトbot @rekipt_bot

この時期のイベリア半島ではヨーロッパで忘れ去られていた哲学書や科学書などが再度、ヨーロッパの言語に翻訳し直された。イギリスの家のチェスターのロバートなどが有名だったように思う。

2012-02-12 23:11:10
歴プトbot @rekipt_bot

数万冊の規模を誇る図書館があちらこちらに建っていた。同時期のヨーロッパでは、「本」というものは教会にあって、それも一つの教会に十冊あればいい方だったそうだ。

2012-02-12 23:12:37
歴プトbot @rekipt_bot

中央アジアで『アリストテレス論駁』という本を書いたガザーリーという学者がいる。この男は、アリストテレスを批判しているのだが、批判するためにはまずアリストテレスを理解しなければならない、としてアリストテレスの解説を冒頭部に書いた。

2012-02-12 23:14:06
歴プトbot @rekipt_bot

その『アリストテレス論駁』がイベリアに伝わり、ヨーロッパの言語に翻訳される時にタイトルが抜け落ちてしまったのだろう。アリストテレスの解説の部分を読んであまりの完成度に、「これはアリストテレスが自分で解説を作って、ガザーリーというのはペンネームに違いない」と誤解した人がかなりいた。

2012-02-12 23:15:31
歴プトbot @rekipt_bot

そんなわけで、イスラーム支配下のイベリア半島もそれなりに繁栄していたのだ。

2012-02-12 23:16:24
歴プトbot @rekipt_bot

後ウマイヤ朝が崩壊した後は、諸王国の乱立する時代から、北アフリカのイマズィゲン系王朝(ムラービト朝、ムワッヒド朝)の支配へと移り、ムワッヒド朝がナバス・デ・トロサの戦いでカトリック連合に敗れた後、イスラーム国家はグラナダ王国のみとなる。後の経過は知っての通りだ。

2012-02-12 23:18:19
歴プトbot @rekipt_bot

ナバス・デ・トロサの戦いはどうもヨーロッパでは「あの戦い」で通るほど、強烈な印象を与える勝利だったらしいな。

2012-02-12 23:20:23
歴プトbot @rekipt_bot

ただ、「レコンキスタ」という用語は後世の歴史用語であって、当時のキリスト教徒諸王はそれほど聖戦意識を持っていたわけではないらしい。キリスト教徒でありながら「スルタン」を名乗る王もいれば、墓碑銘がアラビア語、ヘブライ語、カスティーリャ語の三通りで書かれている王もいた。

2012-02-12 23:23:03
歴プトbot @rekipt_bot

エル・シドなどはレコンキスタの英雄と呼ばれるが、その名はアラビア語の「アル・サイイド(親分)」が訛ったものらしい。彼はイスラーム勢力に仕えてキリスト教国を攻撃したこともあれば、イスラーム勢力の大軍勢にキリスト教徒の街を守るため突撃したこともあった。

2012-02-12 23:25:17
歴プトbot @rekipt_bot

この混沌具合が中世イベリア史の面白いところなのかもしれないがな。

2012-02-12 23:26:28