中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年)について-島薗進氏 @Shimazono による紹介【増補版8】

8月6日 【増補版8】『放射線被曝の歴史』目次を追加しました。 8月6日 【増補版7】リストを追加し、一部を組み替え、修正しました。 8月5日 【増補版6】「児玉龍彦氏の衆院厚労委での発言について、その他」の項を追加。目次を付しました。 8月3日 【増補版5】リストを追加しました。 8月2日 【増補版4】「復刊情報など」と「「要約・抜粋」をわけました。 続きを読む
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島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』39「広島・長崎後との一番の違いは、微量な放射線被曝にも大きな危険性が潜んでいる、と人々の理解が広まったことにある。…当時はごく限られた人のみが知るにすぎなかったトロイでの水道水の放射能汚染の事実が、1955年には一般の人々にも広く知られる問題となった

2011-08-01 23:48:54
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』40「核兵器に反対する市民と科学者の代表とも言えるポーリング(L.Pauling)が、原子力委員会のリビー(W.F. Libby)と大論争を展開し、それが新聞でも大きく報道されて、死の灰の問題が一層広い人々の不安と関心を集めた」p67低線量被曝問題の始まり

2011-08-01 23:50:36
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』41「放射線被曝が大きな社会問題になると、学術界があたかも第三者であるかのような顔をして必ず登場する。その歴史上最初の例がアメリカのベアー(BEAR)委員会である。(中略)ロックフェラー財閥はすでに1930年代から放射線の商業的利用に着目しはじめたが」

2011-08-03 13:15:36
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』42「マンハッタン計画の下で原子力を一大産業部門に育て上げた。(中略)ロックフェラー財団を通じて、生物、医学、公衆衛生の研究・教育の奨励事業に力を注ぎはじめていた。その最中にビキニの死の灰による放射線汚染問題がアメリカの一大社会問題となったのである」。

2011-08-03 13:16:07
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』43「時の国務長官ダレス(J Dulles)は、ロックフェラー財団の前の理事長である、原子力委員会にも太いパイプが通じていた。同財団は原子力委員会の大物ビューア(John C. Bugher)と密接な関係を保っていた。彼は1952年に原子力委員会の」p69

2011-08-03 13:16:53
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』44「生物・医学部長となり、ABCCの体制整備で腕をふるい、ビキニ事件のさいには放射能による被害をひたすら隠し、過小評価することに努めた人物であった。かれはまた、1953年以来NCRPの委員にもなっていた」。ビキニ事件のフォールアウト(放射性降下物)問題で

2011-08-03 13:17:26
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』45ロックフェラー閥が支える「アメリカが主導権を握るには、原子力委員かよりも科学界が表に立つ方がはるかに好都合であった。こうして、第三者機関と称される科学者の組織が、アメリカ原子力委員会、NCRPおよび私的独占体とが陰で連携して生み出されることになる」。

2011-08-03 13:17:58
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』46「ビューアは、それらをつながく要の人物であった。」「このようにしてロックフェラー財団は、1955年の秋に全米科学アカデミーに対して「原子放射線の生物学的影響に関する委員会(BEAR委員会)」の設立を公式に要請し、その資金に当時としては破格の」

2011-08-03 13:18:18
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』47「50万ドルを提供した。」「BEAR委員会の報告書は、異例の早さでまとめられ、1956年6月に発表された。……(1)遺伝学上の見地からは、放射線の利用は可能な限り低くすべきであるが、医療、原子力発電、核実験のフォールアウト、核科学実験からの」

2011-08-03 13:19:51
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』48「放射線被曝を減少させることは、世界におけるアメリカの地位をひどく弱めるかもしれないので、合理的な被曝はやむを得ないと考える。(2)遺伝的影響を倍加させる線量は、5から150レム(50~1500mSv)の間にあると考えられるが…。労働者の許容線量を、」

2011-08-03 13:20:31
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』49「それまでの週0.3レムすなわち年間15レムから年5レムに引き下げるとともに、公衆に対してもその10分の1の許容線量5mSvを設定した。」アメリカはこの路線でICRPと「原子放射線の影響に関する科学委員会(UNSCEAR)」の説得にかかり成功するP73

2011-08-03 13:21:04
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』50「ICRPが1958年勧告で掲げた放射線防護の基本的考えは、「リスク-ベネフィット論」であった。原子力開発等によって新たにつけ加えられる放射線被曝のリスクは「原子力の実際上の応用を拡大することから生じると思われる利益を考えると」」p76

2011-08-03 13:27:17
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』51「「生じると思われる利益を考えると容認され正当化」されてよいと、ICRPは全面的にリスク容認の考えを導入した。これこそ、かつてICRPが反対したアメリカの原子力委員会とNCRPのリスク-ベネフィットの考えに他ならなかった。かつと異なっていたのは」

2011-08-03 13:27:45
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』52「先進工業国がこぞって原子力開発へと動き出した点であった」「その哲学の下に、許容線量の体系が導入された。許容線量とは「個人および集団全般に許容不能ではないような危険を伴う」線量と定義された」「それらの被曝の制限は、もはや「身体的障害を防止する」もの

2011-08-03 13:28:33
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』53「ではなかった。」「リスク受忍論を導入することが明らかになったからであろうが、ロックフェラー財団がICRPに財政的援助を申し出た。」「そのICRPの方針転換に大きな影響をおよぼしたものは…1955年の原子力平和利用会議であった。」(以上第5章p81まで

2011-08-03 13:33:04
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』54「1957年には、放射能汚染の問題が新しい時代を迎えたことを世界に示す大事件が発生した。イギリスのウインズケールで、原子力発電の歴史上初めての重大事件が起き、20000キュリーを超えるヨウ素131を含む膨大な量の放射能が環境中にまき散らされた」。

2011-08-03 13:33:39
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』55「事故の全容は、軍事機密と原発推進策を守るために隠され続けたが、事故から30年も経ってやっと明るみに出された当時の秘密文書によると、放射能汚染は当局の説明よりもはるか深刻なものであった…」こうした状況を受け「アメリカ原子力委員会は」p85

2011-08-03 13:35:40
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』56「1957年末に核施設で働く労働者の許容線量を従来の3分の1に引き下げ、安全性に気を配っていることを印象づけようとした。もちろん…死の灰への不安と批判は…おさまる気配はみられなかった。1957年から1958年にかけてのこれらの議論において」

2011-08-03 13:36:03
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』57「新たな重要な論争点になったのがガン・白血病の問題であった。すでにみたようにICRPも国連科学委員会も放射線被曝に安全な線量はないと認めたが、それは遺伝的影響に限ってのことであった。ガン・白血病についても安全線量が存在しないのか」が新たな争点(休憩

2011-08-03 13:37:28
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』58「ICRPの主要メンバーは、アメリカ原子力委員会やNCRPと同様に、ガン・白血病の発生には「しきい線量」が存在する、と考えた。しかしながら…ガン・白血病においても、しきい線量が存在するという確たる証拠があったわけではなかった。」p88(以下8/6の抜粋

2011-08-06 09:16:17
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』59「このためICRPは、しきい線量の存在を強く主張することができなかった。/仕方がないのでICRP勧告には、「もしも線量があるしきい値よりも低ければ白血病は生じないと仮定してよかろう」が、「最もひかえめなやり方」として発生率が線量に」

2011-08-06 09:17:09
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』60「比例するであろう、と仮定するというややこしい表現が盛り込まれたのだ。」「低線量被曝は安全、という宣伝をことあるごとに行っていたアメリカ原子力委員会などの原子力推進派には、曖昧な表現といえどもそれらの言及は少なからざる痛手であった。」

2011-08-06 09:17:29
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』61「1958年後半あたりから、原子力委員会派の科学者たちはガン・白血病の問題で一斉に攻勢に出た。彼らはガン・白血病などの身体的影響にはしきい線量が存在する、としきりに宣伝した。…その根拠とされたのは、長崎被爆者の白血病に関するABCCデータ等であった」。

2011-08-06 09:18:11
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』62「ABCCが広島・長崎で行ったガン・白血病の調査研究の内容に触れる前に、彼らがその研究の前提とした事柄についてまず検討しておかなければならない。なぜなら彼らの行ったガン・白血病を含む放射線の晩発的影響の研究は、ABCCの調査研究に先立つ」

2011-08-06 09:18:25
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』63「アメリカ軍合同調査委員会による放射線急性障害の調査研究の、基本的内容を受け継ぐものであったからである。」その主な結論「(1)放射線急性死には「しきい線量」が存在し、その値は100レム(1sV)」で、それ以下の線量をあびても死ぬことはない。」

2011-08-06 09:19:07
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