中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年)について-島薗進氏 @Shimazono による紹介【増補版8】

8月6日 【増補版8】『放射線被曝の歴史』目次を追加しました。 8月6日 【増補版7】リストを追加し、一部を組み替え、修正しました。 8月5日 【増補版6】「児玉龍彦氏の衆院厚労委での発言について、その他」の項を追加。目次を付しました。 8月3日 【増補版5】リストを追加しました。 8月2日 【増補版4】「復刊情報など」と「「要約・抜粋」をわけました。 続きを読む
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島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』14「原子力…施設の存在と運転の必要を軍事的・政治的および経済的理由から認めたうえで…放射線作業従事者、あるいは一般公衆に対して、それらの被曝を受忍させる為に、政府等が法令等の規則で定めた放射線被曝の基準であり、狭くはそれらの線量限度を意味する」p34-5

2011-07-28 18:03:12
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』15。要約。40年代に提起された「許容線量」や「リスク受忍」の考え方はその後次第に変わっていくが、他に追求すべき利益がある為、被害があることを承知の上、ある限度内で害ある被曝を許容するという考え方は維持され強化されていく。核開発を続けるための論理(3章)。

2011-07-28 18:13:16
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』16。「核兵器の開発と結びついた放射線に関する研究にたずさわった科学者たちが何よりも恐れ、対処すべき難題の第1のものと考えたのも、放射線被曝による人類の緩慢な死に対する人々の恐怖が広まることであった。このためアメリカの原子力委員会やNCRPは」

2011-07-28 18:14:03
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』17「…1940年代の終わりから1950年代のはじめにかけて、放射線による遺伝的影響の問題において、いかにすれば主導権をにぎって国際的議論をリードし、リスク受忍論を主柱とする許容線量体系を全面的に導入することができるか、というテーマに…取り組む…」p44

2011-07-28 18:14:43
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』18「その目的から当時アメリカが力を注いだ研究分野…第1に、広島・長崎の調査…。加害者が被害者を調査し、その科学的データをもっぱら自らの占領下において、核戦争勝利作戦と放射線被曝の被害の受忍を世界中の人々に迫るという当時の歴史的状況」p44

2011-07-28 18:16:15
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』19(戦後占領下の広島・長崎調査)「当時の歴史的状況を少しでも考慮するなら、アメリカによる広島・長崎でも原爆障害調査の本質的問題点を洗い出す必要がある。この課題はまた、日本の研究者がとりわけ重きを担うべきでもある」p.44第4章(本日はこのあたりまで)

2011-07-28 18:17:20
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』20「広島・長崎での遺伝的影響調査は、有名な「原爆障害調査委員会(ABCC)」によって行われてきたが、ABCCは自らについて「…全米科学アカデミー・学術会議と日本の国立予防衛生研究所との純粋な学術的事業である」と一貫して主張してきた。」

2011-07-30 11:01:01
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』21「この主張への批判が不十分であったため、ABCCについてはその組織と研究内容の軍事的性格に対する評価が、過去一貫して不明確のままにされてきた。そのことは、ABCCが行った研究の中心的内容を支持することへとつながっている。」p45

2011-07-30 11:01:28
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』22「たとえば、『広島・長崎の原爆調査』(岩波書店、1979)は、この分野における日本の研究の包括的な到達点を示していると考えられるが、そこではABCCの主張が基本的に支持されている。」「そこで…ABCCの歴史全体を振り返ってみることにしよう」

2011-07-30 11:02:49
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』23「アメリカは…日本政府と日本人科学者の協力を取りつける方策をとった。それは「日米合同調査団」以来のアメリカの巧妙な戦術であった。…アメリカ本国においては「日本のおいて原爆の効果を調査するための軍合同委員会」というのが正式の名称であった。

2011-07-30 11:03:37
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』24「「国立予防衛生研究所…を1947年初めに設立させ…「ABCC-予研共同研究」体制を作り上げた。しかしこの場合も共同研究とは名ばかりで…ブルーズとヘンショウの調査団以降、ABCCの実態は名実ともにアメリカ軍関係者とアメリカ原子力委員会の支配下にあった」

2011-07-30 11:03:58
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』25。ABCCはまず遺伝的影響の調査に集中。「…ABCCの遺伝的影響の調査は、対象とされた被爆者人口が小さいことなどから統計的に有意な結果が見いだせるかどうか非常に疑問視されるものであった。なぜならABCCが追跡調査した妊娠例はおよそ7万例であったが」

2011-07-30 11:04:17
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』26「100レントゲン以上あびたと推定される父親の数はおよそ1400人、母親の数もおよそ2500人に過ぎず、圧倒的大部分が低い線量の被曝例であったからである。しかしその予想通り影響が見いだされない場合には、放射線による遺伝的影響に対する大衆の不安を」

2011-07-30 11:04:32
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』27「抑えることができるという政治的な判断が最優先されて、ABCCの遺伝学的調査が行われた…(1致死、突然変異流産、2新生児死亡、3低体重児増加、4異常や奇形の増加、5性比の増加)。そのような少ない人口であったので、調査の結果は…原爆被爆者の間に生まれた」

2011-07-30 11:05:23
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』28「子供たちに放射線による遺伝的影響があるともないとも言えない、という、案の定とも言えるものであった。しかし、アメリカ原子力委員会や原子障害調査委員会、そしてABCCが事前の予想には一言も触れないで、遺伝的影響はなかったと大々的に宣伝した」p50

2011-07-30 11:06:48
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』29「放射線による遺伝的影響が基礎となって公衆の被曝線量をどうするかということが、1952年から1953年にかけてのICRPでの議論の最大の対立点であった」p53「アメリカは以上のようにその核戦争政策の展開に対応させてリスク受忍論を主柱とする許容線量体系を

2011-08-01 23:22:12
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』30「国際的な放射線被曝防護基準に導入することを繰り返し企てた。ICRPもそれに妥協的であったが、放射線の遺伝的影響による人類の将来を危惧し、核兵器に反対する世界的な運動が広がり始めたことを考慮してリスク受忍論の全面的な導入に慎重な姿勢をとり続けざるを」

2011-08-01 23:22:44
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』31「とり続けざるを得なかった。しかしICRPは、次第にアメリカの許容線量の考えに近づいていった。ICRPは、人類の遺伝的障害を問題にはしたが、核開発のために許容線量被曝が無理強いされること自体には何らの本質的疑問も見いださなかった」p56(4章)

2011-08-01 23:23:12
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』32。5章「原子力発電の推進とビキニ死の灰の影響」「しかしマーシャル諸島の住民が実際に受けた放射線の被害は、3月1日当日の直接の放射線にとどまるものではもちろんなかった。もはや放射線は減衰したと説明されて、汚染した島々へと帰ったロンゲラップ(1957年)」

2011-08-01 23:23:34
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』33「ウトリック(1954年)、ビキニ(1977年)、エニウェトク(1980年)の住民たちおよそ832人とその後の出生者たちは、帰島した島々で残留する放射能で汚染された土壌から放射線をあびただけでなく、そこに生育するヤシの実等の植物や、環礁の魚介類や」

2011-08-01 23:24:03
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』34「ヤシガニ等の食べ物を通じて身体の内部に放射能を取り込まざるをえなかった。1982年にアメリカのエネルギー省は、ロンゲラップ等の残留放射能による年間の最大被曝線量は0.4レム(4mSv)で、一般人の許容線量以内で影響はないと発表した。しかしその後も

2011-08-01 23:24:47
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』35「人々の健康と生活、そして社会を破壊し続けることが、ビキニでも示されているのである」p65。以下p66「原子力委員会は、当初は放射能汚染は大したことはなく危険はない、と主張したが、久保山さんの死をはじめとする被害の事実が次々とその主張を打ち消した」。

2011-08-01 23:46:13
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』36「この事件を契機にして、核兵器と核実験に反対する運動が日本だけでなく世界的に広まった。が、なんといっても大きな変化は、当のアメリカで批判が高まったことであった。それにはわけがあった、前にも述べたように、アメリカは国内での核実験も行うようになったが」

2011-08-01 23:47:05
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』37(修正版)「それによる放射能汚染の問題が、すでにビキニ事件の前年の1953年からネバダの周辺で問題になりはじめていた。さらに1954年の4月には、核実験による死の灰が、はるか遠くのニューヨーク州トロイ市の水道水を汚染していることが発見された。」

2011-08-02 08:10:10
島薗進 @Shimazono

中川『放射線被曝の歴史』38「全世界が核戦争で一瞬のうちに死滅するということにならない場合でも、放射能の長期的な影響で人類はじわじわと死に追いやられる。この人類の緩慢な死滅に対する恐怖と不安の世界的広がりが、ビキニ後の世界の人々の放射能問題への対応の出発点となった。」

2011-08-01 23:48:05
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