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2021年2月22日

猫と日本史の話

猫の日の記念に朝からとりとめもなく話していた猫と日本史のお話のまとめたやつ
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『寛平御記』宇多天皇の猫の話

こうく @usedtobe_sth

寛平元年二月六日。朕の閑時に猫の消息を述べて曰ふ。驪猫一隻は大宰少弐源精の秩満し来朝して先帝(光孝天皇)に献ずる所なり。 其の毛色の不類なるを愛す。余の猫々は皆浅黒色なり。此独り深黒にして墨のごとし。其の形容を為すは、悪、韓盧に似たり。 長尺五尺有りて高きは六寸許りなり。

2021-02-22 09:59:37
こうく @usedtobe_sth

其の屈するや、小さきこと秬粒のごとし。其の伸ぶるや、長きこと張弓のごとし。眼睛の晶熒たることは針芒の乱眩するがごとし。耳鋒の直竪たることは匙上の揺れざるがごとし。其の伏臥する時、團圓して足尾見えず。宛も堀中の玄璧のごとし。其の行歩する時、寂寞として音聲聞こえず。恰も雲上の黒龍のご

2021-02-22 10:02:05
こうく @usedtobe_sth

とし。性は道引を好み、五禽に暗合す。常に頭を低くし、尾を地に著く。而るに背脊を曲聳せば高さ二尺許りなり。毛色は澤盖の悦しきこと、是に由るや。亦た能く夜鼠を捕らふること、他し猫に捷る。先帝の愛玩すること数日の後、之を朕に賜ふ。朕の撫養すること今に五年なり。毎旦、之に給ふに乳粥を以て

2021-02-22 10:04:46

毛色は澤盖の悦しきこと、是に由るや
→毛色の悦澤たること盍ぞ是に由らざらんや

こうく @usedtobe_sth

す。豈に啻だ材能の翹捷なるを取るのみならんや。誠は先帝の賜はる所に因り、微物なりと雖へども、殊に懐育の心有るのみ。仍りて曰はく「汝、陰陽の氣を含み、支竅の形を備ふ。心有りて必ず寧ろに我を知るや」と。猫、乃ち歎息して首を挙げて吾が顔を仰ぎ睨む。咽びて心盈つに似たれども、臆するに

2021-02-22 10:06:43
こうく @usedtobe_sth

口言ふこと能はず。『寛平御記』逸文

2021-02-22 10:06:59

【現代語訳】
寛平元年2月6日。私の暇な時に猫のことを述べる。私の一匹の黒猫は大宰少弐源精が任期を終え京に戻り先帝(光孝天皇)に献上したものである。 その毛色の類まれなることを愛する。他の猫たちは皆浅黒色である。しかしこの猫だけは唯一深黒く墨のようだ。見た目をなすことは、ああ、韓盧(黒い犬)に似ている。 大きさは5尺ほどで、高さは6寸ほどである。
縮まると、小ささは黍粒のようである。伸びると、長さは張られた弓のようである。眼のキラキラとしていことは針が光り輝くようである。耳のピーンとしていることは置かれた匙が揺れることないようである。伏した時、丸々として足も尾も見えない。ちょうど堀中の黒い玉のようである。歩く時、静かで声も聞こえない。ちょうど雲上の黒龍のようである。性は導引術を好み、五禽に似ている。常に頭を低くし、尾を地につけている。しかし背中を伸ばすと高さは2尺ほどである。毛色のキラキラとしていることはこれに由来しないことはなかろう。また能く夜の鼠を捕えることは他の猫に勝る。先帝の数日猫を愛して後、猫を私に賜った。私が養育してからするもう5年である。毎朝、猫に乳粥をあげている。どうして材能の俊敏さを取るに過ぎないだろうか。先帝より賜られた猫であるので、取るに足らぬものであるが、とりわけ育てる時に心を注いだ。そこで私は猫に「お前は陰陽の気を含み、人間と同じく四肢九竅の形を備えている。人の心があり、必ずや私を知らないことがなかろう」と言った。猫はそこでため息をして首をあげて私の顔を仰ぎ睨んだ。咽びて心に何か浮かべたようだが、臆して何も言うことはなかった。

日本の猫の飼い方の話

こうく @usedtobe_sth

『枕草子』で清少納言は「猫は背中は黒く腹が大変白いものがよい」と書き、また「なまめかしきもの」(今っぽいおしゃれなもの)では「簾の外や勾欄に、大層趣深い猫で、赤い首輪に白い札をつせて村濃の綱を長く引き、首輪にひっかけるイカリや長い組紐などをつけて、散歩させる」ことを挙げている。

2021-02-22 10:59:05
こうく @usedtobe_sth

院政期以降の絵巻物には猫が見られるようになる。(猫がみえる、もっとも古いものは『信貴山縁起絵巻』だそう) それらでは猫が紐で結ばれている姿が見受けられ、猫を飼うにあたり、犬のように紐で繋げることはそれほどおかしなことではなかったと思われる。

2021-02-22 11:08:00
こうく @usedtobe_sth

だいぶ時代がくだった慶長七年7月、8月あたりには飼い猫を繋いではいけないというお触れがでていたことが『時慶記』にみえる。そのため放し飼いにされる猫が増えるに伴い、勝手にどっかいってしまったり、野犬に食われて死ぬことも増えたそう。放し飼いするようにという法令がでているというのとは、

2021-02-22 11:15:17
こうく @usedtobe_sth

逆に実態として、猫は紐に結ばれて飼われていたのだと思われる。

2021-02-22 11:15:52

一条天皇と猫の話

こうく @usedtobe_sth

長保元年九月十九日、内裏の御猫が子供を産んだ。そこで東三条院、藤原道長、藤原顕光も参加して産養(人間の子供の生後七日後に行われる祝い)があった。衝重、椀飯、納筥の衣などもあったそうだ。猫の乳母には馬の命婦があてられた。世の中の人はこれを笑っているという。奇怪なことである。

2021-02-22 11:31:25
こうく @usedtobe_sth

世の中の人は目くばせしている。もしかしたら衰微があるのだろうか。いまだ獣に人の礼を用いたとは聞いたことがない。ああ。 『小右記』 一条天皇の頃、内裏では猫に産養が行われたそうで藤原実資は批難をしている。この猫は恐らく『枕草子』で犬の翁丸との一件が有名で、命婦のおとどと名付けられた

2021-02-22 11:37:32
こうく @usedtobe_sth

猫と思われる。(なおこの一件は長保二年三月のことだそう) 命婦のおとどは『枕草子』によると「かうぶりにて」とあり、五位に叙されていたことがわかる。

2021-02-22 11:40:09
こうく @usedtobe_sth

『朧月猫草紙』(山東京山) 今天保12年からおよそ840年ほど前、一条院と申しまして女性の帝さまがいらっしゃった。このとき、大内裏ではご寵愛の猫に命婦という官を賜り、猫の膳椀や衣服までも賜ったことが、この帝に仕えた右大臣実資のしるしなさった『小右記』という本に詳しくみえる。

2021-02-23 01:39:27
こうく @usedtobe_sth

さてこの頃、高麗国よひ猫が日本へ貢がれたのだという。『源氏物語』の女三宮や『枕草子』でも内裏で猫を寵愛なさったことがみえる。最近の慶長のころまでも、猫は少なかったのか、猫には必ず碇綱というものをつけて飼ったことが、書物にみえる。日本国中に江戸ほど猫が多いところはない。

2021-02-23 01:41:11
こうく @usedtobe_sth

ここは繁盛した街で家も多く鼠も多いためであろう。

2021-02-23 01:41:45
こうく @usedtobe_sth

宝井其角の書簡に見える話 紅葉山の烏たちは徳に飽きまして、将軍の徳川綱吉が参詣したとき、将軍の裃に糞を落とし申し上げました。この罪によって烏3000羽余りが八丈島に流され申し上げた。皆羽を切って流されました。清少納言の『枕草子』の翁丸の島流しの例のようで可笑しい。今月11日のことです。

2021-02-23 01:52:53

中世の公家と猫

こうく @usedtobe_sth

戦国時代の公家で、平氏の西洞院時慶の日記『時慶記』には猫の記事が多く見られる。日記によると時慶は断続的に猫を飼っていたことがわかり、たびたび随所から猫をもらっている。慶長十年には後陽成天皇から猫を下されているが、時慶の頃の西洞院家と天皇との関係が良かったためと思われる。

2021-02-22 11:47:11
こうく @usedtobe_sth

twitter.com/usedtobe_sth/s… 猫を放し飼いすべきお触れが出たのはちょうどこの頃で、『時慶記』にも猫がどこかへいってしまい、人が見つけて持って帰ってきてくれたり、逆に時慶が猫を捕まえて返したという記事がある。前者では大炊御門経頼や中御門資胤が時慶の猫を見つけてもってきてくれている。

2021-02-22 11:52:03
こうく @usedtobe_sth

また慶長九年には飼い猫がいなくなったので、般若心経三巻と五大尊の修法を念じたとまであり、そうこうしたら不思議と戻ってきたそう。 後者の例では中院通勝の猫が時慶の家に迷い込んできており、返却してあげている。

2021-02-22 11:53:37
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