2021年3月17日の町田明広さんのtweetをまとめてみました

第一次長州征伐だけかと思ってたがパリ万博の件と明治維新のときの長崎と横浜に新政府から使いを出すのも混じってます
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町田 明広 @machi82175302

今からちょうど154年前、慶應3年3月17日、「是より先、高知藩士中岡慎太郎、鹿児島に赴き、鹿児島藩士西郷吉之助・吉井友実等と会し、藩情を質し、吉之助等の高知及宇和島二藩との交渉顛末を聞く。是日、慎太郎、太宰府に至り元権中納言三条実美等に謁し、之を報ず。尋で、慎太郎上京す」。

2021-03-17 16:49:53
町田 明広 @machi82175302

今からちょうど154年前、慶應3年3月17日、「是より先、鹿児島藩、仏国巴里万国博覧会に出品するに琉球島王の標識を以てし、其態度往往幕府の指令に従はざるものあり。

2021-03-17 16:58:51
町田 明広 @machi82175302

続き)是日、駐仏日本全権向山一履「隼人正・外国奉行」外国奉行支配組頭田辺太一に命じ、鹿児島藩士岩下佐次右衛門「方平」・同藩顧問モンブランと博覧会日本部総理事レセップの邸に会し、其撤去を議せしむ」。

2021-03-17 16:59:00
町田 明広 @machi82175302

今からちょうど153年前、明治1年3月17日、「長崎裁判所参謀大隈八太郎「重信・佐賀藩士」を参与兼外国事務局判事と為し、和歌山藩士陸奥陽之助「宗光」を外国事務局権判事と為し、並に横浜に駐在せしむ。議定兼軍防事務局督嘉彰親王「仁和寺宮」元服す。在京諸侯五節句参賀等の条規を定む」。

2021-03-17 17:04:08
町田 明広 @machi82175302

今からちょうど153年前、明治1年3月17日、「大総督熾仁親王、再び東海道先鋒総督府参謀木梨精一郎を横浜に遣し、書を英国特派全権公使パークスに贈りて、東征の旨趣及武蔵金沢藩主米倉昌言をして仮に横浜を警守せしむることを報じ、之を各国使臣に通告せんことを託す」。

2021-03-17 17:10:19
町田 明広 @machi82175302

慶応2年6月25日「軍艦奉行勝義邦、上京す。書を京都守護職松平容保に呈し、征長・兵庫開港・金穀窮乏等に就て意見を陳ず。明日、容保に謁して之を説き、更に書を致して、活眼を開きて宇内の大勢を観、且幕府の職掌と徳川氏の家事とを明らかにするの要を陳ず」➡️要チェック‼️

2021-03-17 18:39:25
町田 明広 @machi82175302

長州征伐(長州藩処分)というと、元治元年(1864)の「禁門の変」後の第1次長州征伐を思い起こすが、それ以前、参与諸侯間で議論が行われていた。当時、横浜鎖港と並んで、長州藩問題は国家レベルでの喫緊の課題であった。

2021-03-17 18:40:45
町田 明広 @machi82175302

続き)元治元年2月8日、関白二条斉敬の許に朝彦親王・晃親王・近衛父子・徳大寺公純の廷臣、一橋慶喜・島津久光・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂の朝政参与諸侯、松平直克・酒井忠績・水野忠精・有馬道純の幕閣という、当時の首脳全員が参集した。

2021-03-17 18:41:26
町田 明広 @machi82175302

続き)そこでは、「尋問ケ條覚、去年八月十八日元三條始七人令誘引事、幕舶ヲ引留候事、幕使ヲ令暗殺候事(中根一之丞の事也)、於長崎借渡候薩船ヘ妄ニ令砲撃候事、右同時ニ左之通可申渡事、兼而御沙汰有之候元三條始七人早々可差出事、右末家壱人家老一人召登於大阪閣老ヨリ可被申渡事」を決した。

2021-03-17 18:41:46
町田 明広 @machi82175302

続き)2月11日には、毛利慶親・定広父子を糺問し、応じない場合は征討を実行することとし、紀州藩主徳川茂承を大将軍名代、陸軍総裁職松平容保を副将、老中有馬道純を差添とする内命を下した。

2021-03-17 18:42:23
町田 明広 @machi82175302

続き)あわせて、徳島・鳥取・松江・広島・岡山・薩摩・熊本・小倉・龍野・福山諸藩に出陣の準備を命じた。15日、春嶽を京都守護職として役料5万石を給し、松平容保の陸軍総裁職を改めて、軍事総裁職とした。

2021-03-17 18:42:38
町田 明広 @machi82175302

続き)朝廷・幕府・諸侯の首脳が一堂に会するほど、対長州藩対応は最優先事項であったが、特に久光にとっては、それは同じであった。八月十八日政変以降の確執、特に薩摩藩借用船砲撃によって、不倶戴天の敵として位置付けられており、会津藩同様、最も強硬な対応を求めていた。

2021-03-17 18:42:42
町田 明広 @machi82175302

幕府の長州征伐方針に対しては積極的に支持しており、藩主茂久に「長之御処置初り候ハ、戦争ニ至り可申欤も難計候間、其許人気奮発之処、折角無御手抜様奉存候」 と、出兵の怠りない準備を指示している。しかし、朝幕共にその方針がぶれ続けており、久光にとってその因循さは座視し難いものであった。

2021-03-17 18:43:03