10周年のSPコンテンツ!
1
mi_wa_chan @gmwcn
なんか岩井俊二が「オトナ帝国」絶賛してる。初めて見た去年の時点で、もう古いと思ったけどなあ正直。
萩noU介 @U_hagino_p
@guts_miwachan 僕はボロボロ泣きながら見てたタイプなんですが、古い=「失われた(もしくは失われつつある)」から感動する人も多いのかなぁと思います。
mi_wa_chan @gmwcn
@U_hagino ああ、それはあるかもね。なんていうか、ああいうテーマ(昭和ノスタルジー)はもう回収されすぎた感じがしたんよね。ひろしの回想シーンとかはグッときたんやけどね。
萩noU介 @U_hagino_p
@guts_miwachan そのグっと来るヒロシの回想さえ現代では解体されつつあり、失われつつあるというのがこの映画のノスタルジーの肝かなぁと。回答として「個人史は無くならない」って方法論もいつまで耐用できるのかなとネガティブな思いもあるんですけど。
mi_wa_chan @gmwcn
@U_hagino えっと、現代では個人史さえ解体されてしまう可能性があるってこと?もしくはそれが仄めかされていたってことかな?
萩noU介 @U_hagino_p
@guts_miwachan 「大きな物語の解体」とか「正史なき時代」とかの批評が溢れる時代になったので「個人史は消えない」というスタンスの批評や作品が出てくるようになったわけですけど、それ自体飽きられたり、エッジを無くすという運命には抗えないんで、どう突破するかが問題だなぁと。
萩noU介 @U_hagino_p
@guts_miwachan なんていうか、ラブソングにしたってやっぱり「愛というものは普遍だ」みたいなのが消えて「結局、愛ってのは人それぞれなんだよ」となってしまうとおもしろくないというか。ていうかそれ、アーティストや批評家が言っちゃ終わりじゃないかという疑念があるんですよね。
mi_wa_chan @gmwcn
@U_hagino めっちゃ考えてしまった笑。なるほど、「大きなもの」に寄りかかるケンと、ひろし(の個人史)の対比があるわけか。で、どう突破するかっていうところになると、最後のしんちゃんの「ズルいぞ」っていうセリフがちょっと弱いよね。そこがおれの違和感の正体かもしれない。
萩noU介 @U_hagino_p
@guts_miwachan そう、しんちゃんは個人史なわけですけど、言い換えれば「おらの未来を奪うな」なんですよね。それはそれで強い言葉だとは思うんですよ。ただ「あの頃は良かった」という言葉の裏には現代への失望がありますし、それは未来への欲求の低下が大きく存在してますからね。
萩noU介 @U_hagino_p
@guts_miwachan ここにある問題って、つまりは「生きてるってだけでも未来は明るいじゃん!」の強度がどれだけあるのかで説得力が変わってしまうということだと思うんですよ。それは観る人のそのときの心境や性格にもよると思うんですけど。
萩noU介 @U_hagino_p
@guts_miwachan ただ、やっぱしんちゃんに「じゃ、おらが明るい未来を作ってやるぞ!」とは言わせられないでしょうっていう笑 僕個人としては「だよね、人生ってアップダウン全部が輝いてるよね!」みたいな考え方なんで、しんちゃんの言葉で十分納得できちゃうんですけど。
萩noU介 @U_hagino_p
@guts_miwachan これって多分、昔よくtwitterで議論になってた「公約数的なポップ・カルチャーがいいのか、それともオタク趣味な社会がいいのか」という議論と同じなんだと思うんですよね。どちらも良し悪しがもちろんあって。
萩noU介 @U_hagino_p
@guts_miwachan ただ、そのような構造であの映画をみたとき、やっぱしんちゃんという「子ども(未来の存在)の代表」は第三の道を提示することが、理想といえば理想なんでしょうね。それは世界中でもできてる人ほとんどいないんでしょうけど。
竹内正太郎 @johnnys_pants
タナソウが最後まで悩んで散ったポイントだ。 RT @U_hagino: これって多分、昔よくtwitterで議論になってた「公約数的なポップ・カルチャーがいいのか、それともオタク趣味な社会がいいのか」という議論と同じなんだと思うんですよね。どちらも良し悪しがもちろんあって。
萩noU介 @U_hagino_p
@johnnys_pants ある人は現場性回帰を、ある人はDIYで相互扶助的なオタク社会の享受を、ある人はクラウド化などで既成権威の維持を薦めるわけですけど、僕もどれがいいとは未だに言えないですね。最近は結構DIYにもちょっとした懐疑がでてきてますし。
萩noU介 @U_hagino_p
これは自分でももしかしたら新しい、重要な(ゆえに脆い)意見なのではないかと思ってるのですが…。音楽産業の話などで出てくる「DIYな芸術活動は既存の資本主義社会に対抗しうる方法だ」という賞賛の構図は実は逆に現代の資本主義社会の方向性に回収されているのではないかという疑念がある。
竹内正太郎 @johnnys_pants
ロック音楽におけるポップのセミ・レベル化は、67年にベルベッツがウォーホールとアルバムを発表した瞬間から始まっているという。当時は、アンダーグラウンドがメインストリームを脅かすという、カウンター的な「上下感」があったのかも知れないが、辿り着いたのは上も下もないハイパー・フラット。
萩noU介 @U_hagino_p
というのも「資本主義社会に対抗できる方法」という考えの人(野田努さんとか)がよく攻撃する現代社会の傾向が新自由主義・ネオリベだけど、その人たちは「ネオリベは個人よりも企業を優先する。だから景気が悪くなるとアーティストという個人を簡単に切り捨てる。ならDIYだ!」と言うと思う。
萩noU介 @U_hagino_p
実はネオリベの性質はフーコーの『生政治の誕生』から考えを借りると「企業や資本>個人」ではない。「企業や資本=個人」なのだ。だから、実はDIYほどネオリベ的な音楽産業の形態もなく、反企業のようでそうではない。アーティストという個人は芸術家ではなく企業になってしまうという裏面がある。
竹内正太郎 @johnnys_pants
ピッチフォークは、明確な得点付けでそのハイパー・フラットに一定の秩序をもたらしたこと。フラットをフラットに消費することを彼らは薦めた訳じゃない。ただ並び替えただけ。時代の要請に応えられたのは、何と言ってもスピードと、スケールだろうな。つまり、早く、たくさん、明確に並び替えたと。
竹内正太郎 @johnnys_pants
タナソウはスヌーザーの表紙に悩んだというが、ハイパー・フラットには中心がそもそもない。中心をでっち上げようという批評の恣意性もとっくに死んでる。そしてピッチフォークには、当たり前だが表紙というものはなかった。たくさんの音楽を飲み込んで、並び替えて、吐き出しただけ。それがゼロ年代。
萩noU介 @U_hagino_p
もしくはこうも言える。うちの大学のとある先生の講義の内容だけれども、ネオリベとは個人の労働を過激にするものではない。労働を消失させるものなのだと。全ての人間の営みを労働を含めて「活動」にするのだと。
竹内正太郎 @johnnys_pants
言ってるよ(笑) RT @U_hagino: 「資本主義社会に対抗できる方法」という考えの人(野田努さんとか)が攻撃する現代社会の傾向がネオリベだけど、その人たちは「ネオリベは個人よりも企業を優先する。だからアーティストという個人を簡単に切り捨てる。ならDIYだ!」と言うと思う。
萩noU介 @U_hagino_p
それはアテネなどの古代の民主主義社会がモデルにされていて、簡単に言えば出版事業なんか無くても哲学者みたいな直接的な生産をしない人も生きて行けた。それは全ての人間の営みが活動であったからだと。まぁ、その「活動」を支えていたのは非人間である奴隷に労働をさせる奴隷制だったのだけど。
残りを読む(36)

コメント

コメントがまだありません。感想を最初に伝えてみませんか?

ログインして広告を非表示にする
ログインして広告を非表示にする