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大学の教師は、だれしもその就任のときの事情を改装することを好まない。なぜなら、それはたいてい不愉快な思い出だからである。 (マックス・ウェーバー『職業としての学問』17)
2021-03-22 13:39:23問題は、ある教師のところへばかり学生が集まるというのことの原因が、多くのばあい、その人の気質だとか、または単なる声の調子だとかいうような、外面的な事柄にあるということである。 (マックス・ウェーバー『職業としての学問』19)
2021-03-22 13:44:16こんにちはなにか実際に学問上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られるのである。これはたんに外的条件としてそうであるばかりではない。心構えのうえからいってもそうなのである。 (マックス・ウェーバー『職業としての学問』21)
2021-03-22 13:56:20こうしたあまり類のない、第三者にはおよそ馬鹿げてみえる三昧境、こうした情熱、つまりいまいったような、ある写本のある個所について「これが何千年も前から解かれないできた永遠の問題である」としてなにごとも忘れてその解釈を得ることに熱中するといった心構え―これのない人は学問に向いていない
2021-03-22 14:02:00なぜなら、いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである。 (マックス・ウェーバー『職業としての学問』23) 「いやしくも人間としての自覚のあるものにとって」というのが良いね。
2021-03-22 14:04:57作業と情熱とが―そしてとくにこの両者が合体することによって―思いつきをさそいだすのである。だが、思いつきはいわばそれを欲するときにあらわれる。それはわれわれの意のままにはならない。 (マックス・ウェーバー『職業としての学問』25)
2021-03-22 14:13:54学問上の「達成」はつねに新しい「問題提起」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。 (マックス・ウェーバー『職業としての学問』30) 芸術と学問との違い。
2021-03-22 14:26:08なぜかといえば、無限の「進歩」の一段階をかたちづくるにすぎない文明人の生活は、その本質上、終わりというものを持ちえないからである。つまり、文明人の場合にはなんぴとの前途にもつねにさらなる進歩への段階が横たわっているからである。 (マックス・ウェーバー『職業としての学問』34)
2021-03-22 14:51:03一般に自然科学は、もし人生を技術的に支配したいと思うならばわれわれはどうするべきであるか、という問いにたいしてはわれわれに答えてくれる。しかし、そもそもそれが技術的に支配されるべきかどうか、またそのことをわれわれが欲するかどうか、ということ、 (続く
2021-03-22 19:39:31続き) さらにまたそうすることがなにか特別の意義をもつかどうかということ、—こうしたことについてはなんらの解決をも与えず、あるいはむしろこれをその当然の前提とするのである。 (マックス・ウェーバー『職業としての学問』45)
2021-03-22 19:42:05予言者や扇動家に向かっては普通「街頭に出て、公衆に説け」といわれる。というのは、つまりそこでは批判が可能だからである。これに反して、彼の批判者ではなく、彼の傾聴者にだけ面して立つ教室では、預言者や扇動家としての彼は沈黙し、これにかわって教師としてのかれが語るのでなければならない。
2021-03-22 19:57:59諸君はこのようにわれわれに指導者としての性質をもとめて講義に出席される。だが、その際諸君は、百人の教師の中の少なくとも九十九人は人生におけるフットボールの選手ではないということ、いな、およそいかなる人生問題についても「指導者」であることを許されていないということ、を忘れておられる
2021-03-22 20:25:05マックス・ウェーバー『職業としての学問』 学問の限界、教員の限界を暴き出し、学問と政治の峻別を説く名著。いまの時代に通じるような問題点も数多くあった。 特に後半の、「教育者は指導者であってはならない」というくだりは全教員/教員志望者が読むべきだと思う。 pic.twitter.com/iGP9ZAtI2g
2021-03-22 20:57:35